ここでは、県内の米騒動発生地33市町村以外の、米騒動とまでは認識できない県内各地の動きを掲載しています。今後も新たに米騒動発生地と認識される町村が発掘される可能性があります。
久賀町は、大島郡の郡役所のあった郡行政の中心地で警察署も久賀にあった。安下庄町で大規模な米騒動が発生し、久賀町でも混乱が続いたが、集合の呼びかけや米商の襲撃はなく、検事処分者もでておらず、米騒動発生地としなかった。
≪馬關毎日新聞大正7年8月25日≫「●未だ不安なる大島郡」。抜粋。
「△久賀町」にては義濟會を設置し寄付金を募集して戸数割平均等以下に對し白米一升二十五銭其他は三十銭にて各米商にて發賣なさしむることゝなりしが米屋が莫迦に恩を着せるとかにて憤慨するものあり切符を廃し町役場にて販賣されたしと〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇の二名町役場に向つて要請せり又諸物價の高價なるをも低下するやう盡力すべしと提議するものあり依つて義濟會評議員各商人を町役場に召集し協議會を開くことゝなせるが同町酒造業者は一升五十銭に二十二日より値下げしたり」
≪『關門日日新聞』大正7年8月28日≫「不穏の久賀町」。要約、「」は引用。
「一部細民間に於て」、米は安価販売しているが、他の商品は柳井・岩国地区より2割方高いため、他の商品の割引販売を町当局に迫り、応じなければ「相当の方針」があると文句を述べた。また、「二三の醤油店横に醤油1升15銭なりなどの貼紙」を夜中に張るなどの不穏な行動があった。このため、8月24日午後3時、教西寺で秋元町長が米価調節の状況を報告し、他商品も「相当廉売」するように注意した。
「高森村(玖珂郡)では、十一日(8月)に浄泉寺で村民大会を開いて、米移出の禁止と外米買入れを決議して村長に要求し」(『山口県政史』上巻578頁)ている。
8月11日は、米価高騰への対応を求める要求としては、県内では最も早い時期の動きである。米商に対する米価引き下げの強制などの要求、騒動の発生、警察官の出張・説諭などを記載した史料はなく、米騒動発生地としなかった。
山口県の米騒動の嚆矢は、8月12日の福川小学校の運動場での集会なので、高森村の村民大会を米騒動と認識すれば県内米騒動の発生は1日早くなる。大都市の発生の嚆矢が、8月10日の京都市・名古屋市の米騒動で、8月11日が大阪市なので、先進地の米騒動が、県内に早い段階で伝播していた。
グーグルマイマップ。管理者作成。
≪關門日日新聞大正7年8月21日≫「●厚狭市の警戒 下関より軍隊派遣」
「厚狭郡厚狭市にては去十七日夜宇部及小野田方面における暴徒集團の一部来襲すべき形勢ありとて厚狭部長派出所にては十八日夜本縣警察部へ應援巡査の派遣方を乞ひ一面同地方消防組を召集し共力徹宵警戒に努めたるが應援巡査は同夜十二時頃自動車三臺にて下關警察署より十數名出張し十九日夜も引續き徹宵同地消防組と共力警戒中なるが同地なる日本火薬株式會社厚狭作業所にては同所附近を十八日夜来暴徒風の者徘徊する由にて中原同村長より下關重砲兵聯隊へ同所警戒のため兵員の派遣方を乞ひたるに依り十九日午後十一時頃兵員二十名自動車にて同地へ出張し警戒中なるが同村民は何れも戦々恟々たる有様なり」
上側の2枚の史料・・アジア歴史資料センターc0802148500『米価問題に付騒擾の件2止(9)』。茶色の輪郭は管理者が付けた。
下側の2枚の史料・・・アジア歴史資料センターc03011253500『米価問題ニ基ク各地騒擾ノ件』。朱色の傍線は管理者が付けた。
山口県知事電報(8月21日)によれば、厚狭郡厚西村の火薬製造所に下関要塞から将校1名、下士卒20名を派遣して警戒に当たらせている。
前記の『關門日日新聞』は軍隊の派遣を8月19日午後11時としており、下の陸軍資料では8月17日となっている。
下の下関衛戍司令官の報告(8月26日)によれば8月23日に衛戍地の下関に撤去している。
厚狭郡厚西村は現在の山陽小野田市厚狭にあった村である。日本火薬株式会社(現日本化薬株式会社)の工場がありダイナマイトなどを製造していた。下関市、豊浦郡、厚狭郡は12師団管轄化で、シベリア出兵の出兵地域であり、戦時体制下にあった。厚西村への出兵は、同村に米騒動に関する不穏な動きがあっただけでなく、火薬工場に騒動が発生することを防ぐ、予防出兵的な目的があったと考える。
『山口県政史』上巻580頁に「室積町では、町民が不正米商に対して町内交際を絶つ措置をとっている」と記載している。同頁の「図7 県下の騒動発生状況(●・・・米騒動関係事件発生市町村)」には地図上に「室積」の記載がない。米商襲撃等の街頭の騒動の史料がなく、当HPでは米騒動の発生地としない。
≪防長新聞大正七年八月二十日≫「●縣内の騒動...△其他」
「都濃郡太華村にては十六日夜同じく不穏の形勢あり警察の手にて五名の首謀者を捕へ他は直ちに解散し熊毛郡田布施町にては十七日夜富海にては十五日夜何れも米騒動と認むべき事件ありしが極めて些少にて何事も為さゝりし如く下関にては十六日夜米価問題に関し大演説を試み形勢不穏なりしも其場にて解散せしめられ事に事なきを得たり」
以下の『長門市史』の記載から、米騒動として認識できる動きがあった。仙崎町とともに米騒動発生地として検討していきたい。
『長門市史』551~552頁。「長門市域の米騒動」
「 同月、深川村においても米穀商に対し、次のような脅迫状が郵便で送り届けられている。
警告
暴騰セル米価ニ困窮シツヽアル細民ヲ救済スル策トシテ、足下ノ所有米ヲ犠牲的安価ニ、全部深川細民ニ提供スベシ。万一不可能ナル時ハ、直ニ強硬ナル手段ヲ決行ス。右警告ス。
但、十八日正午迄に決行スルコト。
八月十七日午前八時 各地細民団 」
「 これは深川の米商二名が米の買い占めをなし、このため米価の高騰をもたらしたとの風評があったからで、「両名を殺せ」「米商を焼き打ちにせよ」との流言が飛んでいたとき、両米商に対して発送されたものである。この脅迫文によると、米の安売りを実施しなければ強硬なる手段、すなわち焼き打ちの挙に出ることを警告したのであるが、各細民団とは、もちろん架空の団体名である。」
深川村は大津郡の郡役所があった郡の中心地であったものの、仙崎町のように市街地は形成されていなかった。『長門市史』にはこの脅迫状の典拠の記載がない。
『長門市史』522頁には、深川村と同じころ「「米屋を焼き打ちせよ」とか、「打ちこわせ」という流言が飛んでいた」とあるが典拠は記載されていない。
『防長新聞』大正7年8月12日。「●細民救濟の爲 ▽米の安賣を▽町會に建議」。
「防府町地方は白米小賣一升に付四十銭臺を越江(え)將に五十銭臺に暴騰せんとし中流以下にては至る處生活難の聲高く從つて作今不景氣其極に達し居れるが〇〇字〇〇〇〇〇〇は細民救助策として町會に白米安賣の實行法を建議し若し町會にして否認するが如きことあらんと町民大會を開きて其の目的を貫徹せんとて十日午後三田尻警察署に出頭し友田署長に其理由を陳述したるが友田署長は救濟策を講ずるは可なるも其の方法手段に於て當を缺き安寧秩序を紊すが如きことありてはならず從つて町民大會等は絶對に開催の不可を説諭し歸宅せしめたり」
『山口県史 通史編 近代』808頁、「表3-7-3 米価問題をめぐる騒擾(大正7年8月)」はこの〇〇〇〇の陳述を表の最初に記載しており、県内米騒擾の嚆矢と認識している。当HPでは警察への意見陳述に留まるので米騒動と認識しなかった。
『關門日日新聞』大正7年8月21日。「●防府の夜警 宇部暴民襲来の為め」。一部抜粋。
「防府町にては十九日朝来町内に暴民襲来すとの風説起り俄に人心恟々たりしが」以下略。
『關門日日新聞』大正7年8月22日。「●防府の警戒」。
「防府町に於ける人心は未だ鎮静するに至らず在郷軍人團は警察補助として消防組は普通警戒のため青年團は偵察任務のためそれぞれ焚出しをなし不眠不休にて出動せり」▲三田尻海岸より挙動不審のもの上陸の模様あるより二十日は終日該方面の警戒に怠りなかりし」
『防長新聞』大正7年8月30日。「●暴動を種に 防府町」。要約。
日稼30歳は、去月20日、消防組青年団夜警慰労を理由に宿屋、米商など4軒から金銭、酒を受け取った。27日三田尻署より拘留処分に附された。
≪關門日日新聞大正7年8月22日≫「●廉賣で紛擾 =佐波郡牟禮村=」。要約。
8月16日に3方面の集団による暴民蜂起の計画があると聞いた村長は、村会を召集して、10月末まで内地米1升25銭で販売することを断行したものの、村有志者間には非難の声を放つものもあり目下紛擾中なり。
《『防府市史』「防府の米騒動」62~63頁。》
15日夜の富海の米騒動に牟礼村民も加わり、16日の日没後、「太鼓を合図に村内三カ所に細民が集合し、富豪や米屋を打ち壊す計画があることが判明したという。」「牟礼村の米騒動は村当局の適切な対策や米の安売りが功を奏して未然に防ぐことができた(『牟礼村沿革』)。」
徳佐村は島根県境の山間部の村です。
『防長新聞』大正7年8月28日。「●徳佐の不穏▽藤井村長自ら立つて▽野坂峠に警戒をなす」。要約。
去る21日ころ突然石州津和野方面より暴徒来襲の噂が高まった。生雲分署長は同地に急行し、内は米の廉売に努め、外は警戒を厳にした。米商は精白1升28銭で販売し、分署長は部下をそれぞれ部署につかせ、青年戸主約50名を野坂峠に引率して警戒した。その後は村長が各区1名宛て交代させて毎夜深更に至るまで警戒中。
小川村は徳佐村と同じく島根県境の山間部の村です。「阿北」は阿武郡北部の6か村。
『防長新聞』大正7年8月27日。「●阿北の暴動 ▽各村に起りたるも▽大事に至らで鎮静」。一部要約。
小川村では石州(島根県)方面から暴徒が押し寄せるとの急報があったため、県境にあたる村界で防ぎ追い返すため、村民は各戸1名を2か所に集合させて徹夜したものの事なく散解した。
グーグルマイマップ上に管理者がピンを置いた。
『米騒動の研究 第四巻』130頁で、山口県で発生した米騒動として「19 美禰郡大嶺村(八月二三日)」を記載している。事件が発生した時期が米騒動の発生時期と重なり、被告8名が騒擾家宅侵入公務執行妨害事件で起訴されたため、米騒動と認識したとみられる。
『米騒動の研究』は「騒動の内容は全く不明である」とし、『防長新聞』(9月30日)が引用されているものの、新聞記事の内容は米騒動に拘わるものではない。
この事件は米騒動ではなく、村役場移転反対に関連した騒擾事件である。
詳細は『關門日日新聞』大正7年10月17日の記事を参照してください。
『防長新聞』大正7年8月16日。「●柳井局盟休▽集配人全部増給を迫▽り局長は尚ほ熟考中」
「米價の暴騰に依り貧民の窮乏其極に達し生活難の聲は日一日と高まりつゝある今日柳井町郵便局集配人十數名は薄給遂に其職に堪へずとし同盟休業を起こすの意氣込みにて十四日深更委員を選びて當局に迫り此際救濟方法として先ず日給貳拾銭増給方の要求をなし若し之に應ぜざる時は断乎たる行動に出づべき事を述べたるが當局に於いては集配人に對して一度増給せんか事務員に對しても同様増給せざるべからずを以て田中局長代理は秋本局長と協議を遂げ十五日夕刻までに回答すべき旨を答え引取らしめたり」
『防長新聞』大正7年8月18日。「●盟休解決す ▽一日五銭四十日間増給」。記事略。
労働争議であり、米騒動(街頭の行動)と認識しない。