管理者が作成し論文に掲載した表です。表をクリックすると拡大します。(以下同じ)
表は管理者が考察した時期区分です。
管理者は、明治・大正・昭和戦前期における宇部炭鉱(全国的にみても大規模で、中心的な炭鉱の沖ノ山炭鉱と東見初炭鉱を対象としており、中小の炭鉱は含まない)の発展段階を旧掘(きゅうほり)期、第Ⅰ期、第Ⅱ期、第Ⅲ期、第Ⅳ期に時期区分した。
歴史学の特徴は政治・外交・経済・社会・文化の総合的な解釈にあります。政治史、経済史、社会史、文化史など、各学問分野には個別の時代認識・時代区分がありますが、これらの個別史の時期区分は、時代を総合的に考察して時代区分しているわけではありません。各個別史は相互に連関しながら時代を形成しており、歴史学はその連関を総合的に捉えて時代区分します。
たとえば、表中の弓削「素行渡邊祐策翁」(祐策が昭和9年(1934年)に逝去するまで)では、生産過程の技術革新に着目して時期区分をしています。すなわち、人力による排水・運搬の「旧掘期」の後、「第一期」は蒸気機関による排水(管理者はマニュファクチュア段階としています。一番右の列は一般的な鉱工業の発展段階の類型化です)、「第二期」は蒸気機関による運搬(管理者は運搬過程の機械化を産業革命としています)、「第三期」は海底炭田の開発と電力(モーター)・長壁式の導入、「第四期」は坑内動力すべて電力という技術革新で時期区分していることがわかります。
特に電力の使用が重要でした。坑道が沖合の海底に長く伸びていきますので、蒸気力の動力では遠距離の排水・運搬・通気が不可能となり、電力(モーター)の使用により、沖合に伸びる海底炭鉱の採炭が可能となりました。
[参考:現代の大事故は停電によって引き起こされています。最近では福島第一原子力発電所の電源喪失がメルトダウンにつながりました。戦後最悪の炭鉱事故・労災事故となった三井三池三川炭鉱炭じん爆発事故では、炭じん爆発によって坑内が停電したことが大災害につながりました(排水ができなくなった)。停電が発生した時の対策が大災害防止に不可欠です。]
一方、表中の和座は宇部式組合の経営形態に着目して時期区分をしています。しかし、大きな改編である昭和3年の株式会社への変更を第四期とせず第三期に含めている点で、弓削「素行渡邊祐策翁」の時期区分との相違がみられます。
このように、時期区分の基準は研究者により相違しますが、時期ごとの連関を総合的(歴史的)にみて、管理者は表のように「旧掘期」から「第Ⅳ期」に時期区分をしました。
(2019.9.29)
表の説明
〇表の「鉱業法令・鉱夫保護法令」の列の補足説明です。
・高校日本史の教科書では、工場労働者(職工)の保護法として「工場法」(1911年(明治44)制定、1916年(大正5)実施)を記載していますが、鉱山労働者の保護法には触れていません。しかし、エネルギー源の石炭は自給しており、銅は重要な輸出品で、鉱業は工業と並ぶ重要な産業でした。日本の資本主義の中核となる財閥は石炭や金属の鉱山経営により資本を蓄積しました。
「工場法」に対応する鉱山(石炭山と鉄・銅などの金属山)労働者の保護立法が「鉱夫労役扶助規則」(1916年)です。「鉱夫労役扶助規則改正」(1928年(昭和3)公布)により1933年(昭和8)までには、零細鉱を除き、女性の坑内労働は禁止されました。
工場労働者保護の「工場法」と同等の意義のある鉱山労働者保護の「鉱夫労役扶助規則」があったことを知っておくべきです。
(2019.10.2)
〇以下は表の「採炭方式と採炭方法」の列の解説です。
・「残柱式」や「長壁式」を「採炭方式」とし、「手掘り」や「コールピック」などを「採炭方法」として分類・時代区分しています。
表「旧掘(きゅうほり)期」の《碁盤目式蓮根掘り(残柱式)》の説明
表「第Ⅰ期」の《柾目式蓮根掘り(残柱式)》の説明
2枚の図は、林 雅樹『沖ノ山炭礦報告』(昭和六年(1931))九州帝国大学工学部採鑛科(九州大学文書館所蔵)及び河邊芳太郎『沖之山炭礦報告』(1929年(昭和4年))東京帝国大学鉱山科(東京大学工3号館図書室所蔵)の手書きの図を典拠として管理者が撮影画像をもとに手書きで作成した。
残柱式は、採炭現場(切羽・きりは)での天盤(天井)の落下を防ぐため、炭層をすべて掘らず、柱状に炭層を残す採炭方式です。したがって採炭率は低くなります。
長壁式は、幅数十メートルの切羽を支柱で支えて崩落を防ぎ、切羽の炭層採炭面をすべて掘り出しながら進みますので採炭率は高くなります。支柱を撤去した採炭跡は石で充てんしたり、天盤を崩落させたりします。
戦後のカッペ(切羽の天盤を支えるひさし状の鉄柱。昭和23年(1948)山口県山陽小野田市刈屋近くの大浜炭坑で始まる)を使用した、機械化された長壁式採炭による切羽が、宇部石炭記念館(常盤公園内。入場無料)に再現されています。
沖ノ山炭鉱の渡邊祐策頭取が九州の先進的炭鉱に学び、海底炭田に長壁式を導入したのは明治42年(1909年)のことでした。
前図の碁盤目式蓮根掘りは、藩政時代から明治15年(1882)頃までの残柱式の採炭方式です。1間(約1.8m)四方の残柱を残して碁盤目状に採炭する方式で、採炭方法は手掘りです。
柾目式蓮根掘りは明治27・8年(1894・95)頃までの残柱式の採炭方式です。炭層は傾斜していますので、炭層の傾斜に沿って、切羽を柾目式に並行に掘って採炭し、切羽と切羽の間を残柱として残します。碁盤目式より採炭が容易で採炭効率が向上します。採炭方法は手掘りです。
宇部炭鉱は海底炭田が中心で炭層がもろく、鶴嘴(つるはし)による採炭が容易でした。長壁式の導入後もコールピックによる採炭は試行のみで、鶴嘴による採炭が続きました。
2019.10.2
表の《残炭掘》の説明
「明治二十七、八年頃カラ四十年頃ニカケテ残炭掘トシテ今迄ト仝(同)様ナル蓮根掘ヲ盛ニ行ヒタリ」(河邊芳太郎『沖之山炭礦報告』)
表「第Ⅰ期」明治21年(1988)頃から始まる《半永久的採炭法》の説明
「蓮根掘ハ比較的浅キ処ニ行ハレ且ツ又一時的ナリシガ炭層ノ位置深クナリ又海底ニ移ルニ及ビ明治二十一年頃ヨリ斜坑又ハ竪坑ニ依ル半永久的ノ採掘ガ初リタリ。其ノ方法ハ第四図(註・次の図)ノ如ク切羽ニ於ケル採炭法ハ今迄ト殆ンド仝様(同様)ニシテ採収率ハ其ノ初メ四十パーセントヨリ明治四十年頃ニテハ六、七十パーセントニ昇リ居タルガ如シ。而シテ当時ノ運搬主要坑道ハ三、四百間ニテ片盤ハ二百間位ヲ普通トセリ。」(同上)
2019.10.2
表「第Ⅲ期」明治42年(1909)からはじまった 《前進式長壁法・表中の「ロング」》の説明
「前進式長壁法ニ於テハ、地質状態ニ拘束セラレテ已ムヲ得ズ一片オキニ採掘セリ。即チ一片ヲ採掘セバ、二片ヲ残シテ三片ヲ採掘シ、四片ヲノコストイフガ如シ。先ズ大通ヨリ片盤坑道[イロ、ハ-ニ]ヲ掘進シ、コレ等ノ掘進ガ大通ヨリ10間ノビタル所ニ於テ片盤ト片盤トヲ結ブ坑道「向」ヲツク。片盤ト片盤トノ距離ハ15間乃至20間ナリ。又 大通ト最初ノ「向」トノ間ハ、大通保護ノタメ當分採炭セズ。片盤ノ掘進ト同時ニ、片盤ト約5間ヲ距テ、片盤ニ平行ナル小坑道即チ連延ヲ掘進ス、連延ハ片盤掘進の通気ノタメナリ。カクテ[ホヘ]ノ如キ長壁式ノ切羽ヲツケ、前進式ニ採炭シ、片盤及ビ連延ハ切羽ノ前進スルト共ニ順次5間乃至10間ホド前駆ス。切羽運搬ニハ採掘跡ニ[1、2、3]ノ如キ小坑道ヲ保持シ、切羽面ニ最モ近キ「向」[トチ]ヲ利用シテ下片盤ニ運搬シ、大通ニ出ズ。次ニ切羽面ガ「向」ヨリ約10間前進セバ、更ニ新シクココニ「向」ヲ作リ、ココヨリ前進式ニ採掘ヲ始メ、以前ノ「向」ヲ放棄ス。以下同様ナル方法ヲクリカヘシテ 出来ル丈 前進式ニ採掘シ、ソレヨリ今迄採掘セザリシ 二片及ビ四片ノ採掘ニカカル。コレ等ノ採炭ハ後退式ニシテ、切羽ハ 上片盤ノ連延ヨリ下片盤ノ連延ノ間ニカケラル。ケダシ前進式採掘ノ時ハ、片盤坑道保護ノタメ、片盤ト連延トノ間ハ採掘セザルナリ。従ツテ切羽面ノ長サハ、片盤ト片盤トノ距離ヲ15間トセバ、片盤ト連延トノ距離5間宛ヲ加ヘテ25間トナル。此ノ切羽ヲ採掘スルニハ、前進式ノ場合ト同様ニ「向」ヲ立テテ進ミ、石炭ハ「向」ヲトホリテ下片盤ニ運搬シ、大通ニ出ダサル。カクテ切羽面ガ10間位後退セバ、新タニ其処ニ「向」ヲ立テ、以前ノ向ヲ放棄スルコトハ前進式ノ時ト同様ナリ。」(九州帝国大學工學部採鑛科第三部 加藤和幸『沖之山炭坑實習報告』大正十四年(九州大学文書館所蔵))
表「第Ⅲ期」の《後退式長壁法(表の「宇部式ロング」)》の説明
「此ノ方法ハ當坑ニ限ラズ廣ク當炭田ニ用ヒラルノ方法ニシテ、20間乃至25間ノ間隔ヲオキテ片盤坑道ヲ附ケ、片盤ト片盤トノ間ニ、5間乃至10間ノ切羽ヲ階段状ニ附ケタルモノナリ。
先ズ大通ヨリ、片盤ヲ出来得ル限リ長ク掘進ス。片盤ト片盤トノ距離ハ、20間乃至25間トス。片盤ノ掘進ガ凡ソ10間位進ミタル時、上片盤ト下片トヲ結ブ小坑道、風道[イ-ロ]ヲ作リ、片盤掘進ノ通風ヲ取ル。カクシテ片盤ノ掘進終ラバ始メテ切羽ヲツク。切羽ハ階段状ニシテ、一切羽ノ長サハ適宜ニセザルベカラズ。上図ニ於テ[ハ-ニ][ホ-ヘ][ト-チ]ハ切羽ニシテ、[ハ-ニ]ニ於テ採掘セラレタルモノハ、[ニホリル]ナル道ヲトホリテ片盤ニ出サレ、[ホ-ヘ]ニテ採掘セラレタルモノハ、[ヘトヌル]ナル道ヲトホリテ片盤ニ出サル。コレ等ノ道ハ、鉱車ヲトホシ得ル様 予メ仕繰ラレタリ。切羽面ノ支持ニハ打柱ヲ用フレドモ、重要ナル個所ニハ木工積ヲナス。木工積ノ配置ハ上図ノ如ク、以テ運搬坑道ヲ一時支フルコトヲ得。次ニ切羽面ガ[リヌル]ナル線マデ来ル頃ニハ、[イロ]ナル風道ヲ仕繰リ、ソレヨリ[リホ][ヌヘ]ノ如キ坑道ヲ附けて、採掘ヲ中断スルコトナカラシム。」(同上)
以上は、前記表中の「採炭方式と採炭方法」の列のうち、「採炭方式」の変遷の解説です。2019.10.18
九州帝国大学工学部採鉱科加藤和幸『沖之山炭礦実習報告 大正十四年』「第二十二図 五段坑内図」(九州大学文書館所蔵)。(転写禁止。管理者が九州大学文書館で撮影。以下同じ。資料使用の際は出典を明記すること)。
沖ノ山炭鉱は、日清戦争後の明治30年(1897)に沖ノ山炭鉱組合として創業して以来、宇部炭鉱を代表する炭鉱である。昭和3年(1928)に沖ノ山炭鉱株式会社となり、昭和8年(1933)には、全国5位の出炭量を出して全国屈指の炭鉱に発展した。昭和17年(1942)に宇部興産株式会社となり、2022年4月に称号を変更してUBE(ユービーイー)株式会社となった。宇部鉱業所は昭和42年(1967年)に閉山した。
上図は、大正14年(1925)の「五段坑内圖」の画像であり、管理者が沖ノ山炭鉱の「本坑 斜坑口」(真締川(まじめがわ)河口(現在の合同庁舎付近)にあった。本坑はのちに旧坑となる)と「新坑 斜坑口・巻上竪坑」(新坑はのちに本坑となる)の文字と本坑・新坑の位置を示す黒枠を記入した。新坑は大正7年(1918)宇部米騒動が勃発した炭鉱で、当時は宇部湾内の築島(人工島)でした。本坑とは巡行船で連絡しており、島なので物価が高かったにもかかわらず、本坑の鉱夫と同額の賃上げしか提示されなかったため、米騒動が勃発した。
沖ノ山炭鉱の五段(いつだん)炭の坑内図。主力商品は五段炭と大派炭。五段炭は、阪神地方の暖厨房用、工業用炭の需要があり、大派(おおは)炭と比較してカロリーと価格が高かった。大派炭は瀬戸内の塩田(十州塩田)の需要があった。
上図では、本坑、新坑から斜坑が海底に伸びている。たとえば、新坑斜坑口から入坑すると、「眞卸大通」(まおろしおおどおし)が南に延び、「眞卸大通」から西南方向に「右大通」(みぎおおどおし)、東南方向に「左大通」(ひだりおおどおし)が延びている。そこからさらに大通(おおどおし・幹線)があり、大通の左右に、大通から直行・平行して枝状に片盤(かたばん)という坑道が海底一帯に広がっていることがわかる。片盤には大通毎に坑口側から順に「左一片」「左二片」・・・の名が付けられている。人工島を作って新坑を開坑したのは、本坑と新坑の間に断層があり、本坑の坑口からだけでは坑道を広げることができなかったためです。
片盤には前掲図のように採炭場(切羽)があり、石炭は、片盤、大通を通って運搬され、斜坑からエンドレスという巻上げ機で坑外に運び出された。新坑には、斜坑だけでなく、大派炭(五段炭層より浅いところに炭層がある)を巻上げる竪坑もあった(前掲の写真「沖ノ山電車竪坑」の巻き上げ機は竪坑の一例)。
「宇部元山炭田平面図」宇部鉱業組合・昭和3年(1928)発行。九州帝国大学工学部採鉱科林雅樹『沖之山炭礦報告 昭和六年』所収資料(九州大学文書館所蔵)。管理者撮影画像。
「元山」(もとやま)は瀬戸内海航路の目印となっていた本山岬(地図の南西にある岬。現山陽小野田市。炭鉱もあった)の地名。当初は「宇部」の知名度が低かったため、販売の際、宇部炭のブランド名を知名度の高い「元山」炭としたとみられる。瀬戸内海の海運は、関門海峡から瀬戸内海に入ると、次の航海の目印が本山岬だった。
「宇部炭鉱労働事情」『石炭研究資料叢書 №15』九州大学石炭研究資料センター。51頁。管理者撮影画像(ゴシック太字の「大派炭」「五段炭」は管理者が画像に書き込んだ。転写禁止)。
大派炭の炭層は海底128.1尺~133.4尺(約38.4~40.0m)、五段炭の炭層は海底202.4尺~206.4尺(約60.7~61.9m)である。(1尺は約30cm)
大派炭の炭層は、上下を厚くて硬い砂岩層で挟まれて崩落しにくいため、採掘のコストがかからなかった。
一方、五段炭の炭層の上下には柔らかい頁岩層があり、五段炭は高品質であったが採炭はコストがかかった。
宇部炭鉱の主力炭層であった五段炭層・大派炭層の細部の構造と採炭方法は以下で説明する。
五段炭と大派炭は宇部炭鉱の主力商品です。前図の「炭層柱状図」の大派炭・五段炭の炭層を拡大して見ることができます(部分拡大した断面図)。
Aは五段炭層採炭の説明である。
「五段層ノ石炭ハ上図ノ如ク間ニ二尺硬アリ旦二尺硬ノ上部分ハ炭ノ厚サ薄イ為ニ現在デハ二尺硬ノ下部ヲ(註:二重線訂正箇所「下部約三尺五寸ヲ採ツテ」)採ツテヰル、下部モヒール硬ヲ挟ム為ニガリヲ取ラズ、都合デ下ノ3.′0ヲ採炭スルコトニナル、採炭方法ハ、眞卸(主要運搬坑道)ヨリ右方デハ(右一号、右二号大通)昨年ヨリ切羽ニFace Conveyor(chain Conveyor)ヲ利用シテ採炭能率ノ増加(註:以下は次頁の記載)計ツテヰルガ、眞卸ヨリ左方面(左四号、左五号大通)デハスラ引キ運搬ソノマゝ用ヒテヰル。」
「五段」とは五段の炭層があり6尺8寸(約2m)の厚さがあったことがわかる。五段の炭層のうち「二尺頁岩」から上の2つの炭層は薄いため採炭しなかった。下部3炭層の内、「ヒール硬」があるため「ガリ」という炭層は採炭しなかった。したがって、下部3炭層3尺5寸のうち、下部2炭層3.0尺(約90㎝)を採炭していたことがわかる。
また、主要坑道(眞卸大通)の右側の大通につながる切羽(きりは)では、昭和5年から、掘った石炭を「チェーンコンベア」に落して運び炭車(函)に積む込む作業が始まったことが記されている。一方主要坑道の左側の切羽では、従来通り「スラ」によって石炭を運んで炭車に積み込んでいた。
昭和3年に「鉱夫労役扶助規則」が改正され、後山(あとやま)としてスラを引いて炭車に石炭を積んでいた女性の入坑が禁止された(この改正には5年の猶予期間(昭和8年まで)があったものの沖ノ山炭鉱では昭和4~5年には女性の入坑は廃止されていたとみられる)。
この時期に採炭方法が改革され、長壁式の切羽に昭和5年からチェーンコンベアが導入された。従来は、先山(さきやま)という、主に男性が鶴嘴(つるはし)で採炭し、後山という先山の妻や娘などが石炭を炭車(函)まで運んで積み込む採炭方法が行われていた(先山と後山で一先(ひとさき)という)。女性の入坑禁止の時期に、男性鉱夫のみの共同作業により採炭し、チェーンコンベアーに石炭を落とし込んで炭車に積み込みをする効率的な方法に転換した。(石炭記念館(宇部市ときわ公園内)では、戦後の切羽でチェーンコンベアを使った採炭場が再現展示されている)。
Bは大派炭層採炭の説明である。大派炭層は「霜降リ(しもふり)天井」という良質の砂岩(崩落しない)の下部にある3炭層からなり、6尺~5尺(約1.8~1.5m)の厚さがあり、硬(ぼた)層を含む3層を採掘した。大派炭の切羽は高さがあるため、炭車を直接切羽に入れて石炭を積み込むことができるので、石炭を炭車まで運ぶ必要はなかった。
石炭はメタセコイヤなどの大木が炭化、化石化した黒色の可燃性堆積岩で、もともとが木なので手に取ると意外に軽く感じる。
ボタ(硬)とは、坑道の掘削の時に出る岩石や選炭時に出るくず炭などの岩石廃棄物で、石炭と比べると重いので手に取るとすぐに判別できる。
ボタの集積場は山のようになり、ボタ山(硬山)と呼んでいる。ボタ山は石炭分を含んでいるので自然発火することがある。筑豊炭田にはかつて炭鉱の象徴であった大きなボタ山が各地にあり、現在もボタ山が残っているところがある。
宇部炭鉱では陸上部の炭鉱にはボタ山があったが、主力となった海底炭田のボタは海の埋め立てに利用された。このためぼた山は見られない。
2023.2.25更新
《質問》宇部炭鉱の歴史を調べてみよう。
調べ方の一例
《博物館》
石炭記念館(常盤公園)。
学びの森くすのき。
UBE‐i‐Plaza(ユービーイー アイ プラザ)・・・「UBE」(ユービーイー)は「ウベ」であり、UBE株式会社(2022年4月~。もと宇部興産株式会社)の商標。
《参考文献》
『宇部市史』(新旧あり)。『山口炭田三百年史』。『宇部産業史』。『宇部興産創業百年史』。弓削達勝『素行渡邊祐策翁』。宇部時報社『炭都百年史話』。堀 雅昭『炭山の王国』。
(『炭都百年史話』・『炭山の王国』の末尾に、調査に役立つ参考文献一覧あり)
太田 勝『炭都発展の経済史 宇部の歴史的発展の経済史』(論文に近くやや難解)。
宇部炭鉱の事故のうち、1番目と2番目に犠牲者が多かった事故について触れています。2024.10.14
UBE ― i ― Plaza 宇部興産株式会社の博物館です。宇部興産本社工場の入り口のビル1階にあります。宇部興産の歴史や製品の展示があります。