大阪府・大阪市の米騒動は規模と衝突の激しさからみて全国最大の米騒動である。
飯田直樹「方面委員創設の意義と大阪の社会事業」『大阪の米騒動と方面委員制度の誕生』(大阪歴史博物館、2018年10月3日、185頁)に於いて、『米騒動の研究』(第二巻)が大阪米騒動を大正7年8月9日(西成郡今宮町)から記述していることに関して、「しかし、米騒動を民衆が米の安売りを求めて、米屋などを襲撃し、米などを略奪すると定義するならば、11日から始まると考えるのが妥当である。今後の大阪米騒動研究では、米騒動の定義を明確にして議論する必要があるのではなかろうか」という問題提起をしている。
管理者が山口県内の米騒動を分類するときにも、判断ができにくい場合があるのでここで考えてみたい。
補足をしておくと、『米騒動の研究』(第一巻、第二巻)が、8月9日の米騒動を記載しいるのは「西成郡今宮町」すなわち、大阪府における発生である。『米騒動の研究』の記載する大阪市の米騒動発生は、8月11日の天王寺公会堂の米価調節市民大会後である。飯田氏が問題提起しているのは、『米騒動の研究』が大阪府の発生日を西成郡今宮町の8月9日としていることである。
飯田は、大阪府の発生を西成郡今宮町の8月9日からとしていることに対して、米騒動を厳格に定義づけた上で発生時期の考察をおこなうべきであるとしている。
飯田は、「『米騒動の研究』全五巻が出版されて以来、大阪の米騒動の発生から収束までの過程を総体として検討した研究は、管見の限りみあたらない」としており、大阪府、大阪市の米騒動の研究が深化していないことを指摘している。大阪府、大阪市は全国最大の米騒動発生地であり、研究機関も多いところである。今回の特別展を機に研究の深化が期待される。
飯田の指摘は次のどちらかであると管理者は考える。
①『米騒動の研究』は米騒動の定義を明確にしていない。
②『米騒動の研究』の定義づけはしているが明確でない
①に関して、『米騒動の研究』は、米騒動を厳格に定義づけた上で全国の米騒動を分類している。したがって、飯田の指摘は、①ではない。
②に関して、飯田氏は、まず、『米騒動の研究』が米騒動の定義づけをしていることを示すべきではなかろうか。このことにふれないと、『米騒動の研究』が米騒動の定義づけをせずに分類しており、①のような課題がある印象を受ける。
飯田は、多分、②に関して問題提起をしているのであろう。すなわち、新聞記事を根拠に、8月9日、10日に西成郡今宮町で米騒動は起こっていないと判断した。飯田の判断には、一つの基準があり、その基準と、『米騒動の研究』の定義に認識の違いがあると考えられる。
『米騒動の研究』が米騒動の行動を、「貼紙」→「集会」→「騒動」と展開していくと捉え、「貼紙」も米騒動の一形態として分類し、必ずしも米屋襲撃などの集団行動を米騒動の条件として定義していない。「貼紙」だけでも米騒動とすることについては、『米騒動の研究』が討議を重ねたと推察する。飯田氏の見解は、民衆の米屋襲撃などの暴徒化があってはじめて米騒動と定義すべきではないかという問題提起ではなかろうか。
山口県内の米騒動に関しても、『米騒動の研究』の分類基準を適用すると、米騒動として認識するか否か困難なケースがいくつかある。また、工場・鉱山労働者の賃上げ争議から発展した騒擾をどう捉えるかも検討が必要であろう。工場・鉱山労働者の要求は賃上げであり、米の廉売要求ではないからである。しかし、現実の集団行動では、一般的な米騒動と同じように、賃上げを要求する労資関係と直接かかわっていない市街地の米商、商店、富豪、遊郭なども襲撃されている実態がある。
吉河光貞は大正7年富山米騒動を「米騒擾」と認識しなかった。
富山米騒動では警察に連行された者はいたが、起訴者はでていない。検事処分となり、騒擾罪で起訴、有罪となった者はでていない。
『米騒動の研究』は、米騒動を米価問題に関する街頭での集団行動とし、大正7年富山米騒動を米騒動の嚆矢として認識しているが、検事吉河は、検事処分がないので「米騒擾」としなかった。
「米騒動」には騒擾罪あるいは治安警察法が「適用された騒動」と「適用されなかった騒動」が存在する。また、騒擾罪・治安警察法が適用されなかったがその他の刑罰が適用された騒動があった。
富山米騒動でよく指摘されているのが、富山の米騒動は暴動化せず、警察に連行された者はいたが、起訴者(騒擾罪など)は出ておらず、整然とした行動や要求であったという性格である。
一方、騒擾罪には「群集聚合シテ暴行又ハ脅迫ヲ為シタル」という構成要件がある。すなわち、富山米騒動の群衆は、暴行・脅迫をしなかったので、起訴者はでていない。
『米騒動の研究』は、富山米騒動の街頭の行動を「米騒動」に分類した。
一方で、前記の吉河は、富山米騒動は騒擾罪が適用されていないので「米騒擾」としなかった。
大阪府の米騒動がいつからかという課題は、まず、『米騒動の研究』と吉河の認識の検討をすべきだ。飯田の「米騒動を民衆が米の安売りを求めて、米屋などを襲撃し、米などを略奪すると定義する」のは、『米騒動の研究』の定義ではなく、「米騒擾」を「米騒動」と定義する吉河の分類に近いといえる。
大阪米騒動のはじまりを、今宮町の9日とするか天王寺公会堂の11日にするかは、『米騒動の研究』の定義をとるか、吉河の定義をとるかにかかっている。今宮町の9日の騒動は、『米騒動の研究』が「米騒動」の嚆矢としている富山米騒動と同じ性格といえるのではないか。
以下は『米騒動の研究』第二巻22頁の引用である。
「「九日朝西成郡今宮町字木津 米穀商広岡ふじえ方にては、五石の白米を店頭に抱え居りながら、得意先の注文品なりと称して、群る買手に販売せず、俄かに店をとじて相手にせざるより、付近の者共一〇〇余名は同家を取り巻き、慾婆を叩き殺せ、家を打壊せと形勢不穏」の状をしめしたが、「警官が現場にかけつけ八方鎮撫につとめ」たので、その場は一応おさまったが、今宮町では、多くの米屋が、「平常の得意先の外一升の米も売りませんと、外来のお客を断」るのが多く、住民の不満は日ましに強まっていた(大阪朝日、8.11)。」
『米騒動の研究』は、8月9日の今宮町の騒動を富山米騒動と同様に「米騒動A」に分類している(『米騒動の研究』第一巻97頁)。『米騒動の研究』第一巻89頁で、Aは、群衆の暴動または暴動にいたらない示威行動のあったもの、Bは社寺の境内、街頭の空地等に群衆が集会したが、その段階で鎮静解散したもの、Cは、集会をよびかける貼紙、富豪・米屋等にたいする個人的脅迫等がおこなわれ、いわゆる「不穏」な情勢を生じたが、何らの群衆行動も現実には生じなかったもの、と定義されている。)
また、吉河は検事の立場から、治安警察法違反の労働争議も「米騒動」に分類している。このことの是非も検討しなければならない。
近年、井本三夫は対米価賃金値上げの労働争議も広義の近代米騒動に分類すべきだとしている。このことの是非も検討しなければならない。
管理者は、富山米騒動を「米騒動」とする『米騒動の研究』の定義の立場をとっている。また、治安警察法違反の労働争議は「米騒動」とは考えない立場をとっている。
しかし、『米騒動の研究』が「貼紙」のみの場合も「米騒動」に分類していることに関しては、なぜ「米騒動」に分類できるのか、理由を明確にしなければならないと考える。
飯田の「米騒動の定義を明確にして議論する必要がある」という問題提起を整理して米騒動研究を深化させなければならないと考える。