Newspaper article (No English translation)
『米騒動の研究』(第四巻)の山口県の記述では『防長新聞』(宇部村に特派員派遣)と『關門日日新聞』の記事が中心になり、宇部の米騒動の詳細を記事にしている『馬關毎日新聞』と『宇部時報』が引用されていない。
目撃記事(社屋が発砲現場である)を含め最も正確で詳細な記事は地元紙の『宇部時報』であり、『馬関毎日新聞』は宇部村に特派員を派遣し、現地取材による詳報を記事にしている。
当HPでは現在閲覧が可能な地域4紙の記事を表題のみ記載しました。
以下のゴシックは新聞記事が大文字や太字で記載されていることを示す。
大正7年8月21日「〇宇部の大不祥事 =坑夫結束して民家を破壊し= =彌次馬雷同して掠奪を爲す= =軍隊出動して暴徒を銃殺す=」
大正7年8月25日「〇大不祥事別報 慘憺たる騒擾の徑路」3面全面
大正7年8月25日「●須らく根本を斷て 憎む可きは煽動者なり 宇部暴動は生活難に非ず」2面
大正7年8月25日「善後策奈何 社會の欠陥を認めよ 之に處するの途奈何」1面
大正7年9月1日「●死傷した暴徒」
大正7年9月8日「訪問録 被害の筆頭 上杉治助君」
大正7年9月15日「時事管見」
大正8年4月20日「●豫審終結した 宇部暴動事件 五月二十日より公判開廷」
大正8年7月6日「●米暴動判決 一名は無期懲役」
大正7年8月15日「●縣下の社會救濟策 危檢を未萌に防止 各町村の米安賣決議...▲宇部村」
大正7年8月16日「▲宇部署の警告 結局安賣米」
大正7年8月17日「■□呵責なく處分 宇部分署長談」
大正7年8月18日「●縣下の米廉賣...▲宇部村」
大正7年8月20日「●残虐暴戻を極めたる△宇部新川坑夫の大騒亂」。5面全面。
大正7年8月21日「▲新川坑夫暴動續報 ◇拘禁者壹千參百豫名」「▲悲壮荒涼を極めたる大暴動の跡」
大正7年8月22日「●宇部暴動 紀伊警察部長當時の光景を語る」
「●新川坑夫暴動餘聞 ▼商業の回復は時日を要す ▼近來未だ曾てない大檢擧」
大正7年8月23日「●引致千六百六十名▽宇部新川其後の状況」
大正7年8月24日「●調査中の新川損害 五六十萬圓か」「宇部暴動の餘類捕はる ▲大嶺海軍炭坑にて」
大正7年8月26日「●損害二十九萬圓 =宇部暴動の祟り高= =未だ殖るかも知ぬ=」
大正7年8月28日「●宇部の秩序全く回復◇軍隊全部引上げ◇各商店遊郭業に就く」
大正7年8月29日「●貳百三十名豫審へ 宇部暴動の檢擧千八百名に達し大部分は一應釋放せらる」「●暴徒自殺を企つ 宇部見初坑の坑夫 ◇足部に貫通銃創を受けて◇治療中菜切庖丁を咽喉部へ」
大正7年10月8日「●未決監に三百六十名 =煎じ詰た宇部暴動の數= ◇在郷軍人が二十六名◇」
大正7年10月16日「●宇部の白米 ▲一升四十七銭に販賣」
大正8年5月22日「審問が開始された 宇部の米暴動 被告十八名に對し本日より」
大正8年6月5日「峻烈骨を抉るが如き檢事の論告 宇部米暴動續公判=重きは無期懲役輕きは罰金求刑=」
大正8年6月7日「宇部米騒擾事件 實地檢証 五名丈は公判分離」
大正8年7月6日「宇部米暴動判決 重きは無期懲役 五日山口地方裁判所にて」
大正8年7月10日「米暴動の被告餓死す」
大正7年8月17日「●篤志家會同◆聖旨徹底方法に關し」
大正7年8月17日「●米價と各地...◇宇部村」
大正7年8月20日「●縣内の騒動...宇部村」
大正7年8月21日「宇部の暴動 特派記者」3面の半面
大正7年8月22日「●宇部の其後」
大正7年8月29日「●暴徒自殺未遂」
大正7年8月31日「●宇部の昨今 ▽人心全く安定し▽商店も八分開店」
大正7年10月30日「●判檢事の活動 ▽宇部騒擾事件擴大」
大正7年11月15日「●宇部分署改稱」宇部警察署に昇格
大正8年5月20日「●宇部騒擾事件 今日より開廷」
大正8年5月21日「●被告數百公廷を壓す」
大正8年5月25日「●罰金よりも體刑を喜ぶ◇森検事談」
大正8年6月1日「●騒擾犯人逃走 ▽山口地方裁判所から」
大正8年5月25日「●罰金よりも體刑を喜ぶ◇森検事談」
大正8年6月5日「●宇部騒擾求刑◇無期懲役一名▽其他懲役十五年以下罰金」
大正8年6月7日「●宇部騒擾 分離事件檢證」
大正8年6月11日「●周慶寺山の縊死 ◇多分逃走中の騒擾犯人ならん」
大正8年6月14日「●前非を悔いて縊死 ◇死ぬる前に寺參り」
大正8年6月18日「●明日公判の 騒擾首魁 ◇証人も來る」
大正8年6月20日「●分離事件結審 △判決は本事件と共に◇來る七月五日」
大正7年8月17日「▲宇部分署の交渉」
大正7年8月18日「●米廉賣 各地の状況 宇部の廉價」
大正7年8月24日「●宇部暴徒の一人捕はる 但し暴動協議に辟易した男」
大正7年8月19日「●宇部坑夫の激昂 渡邊代議士邸及遊郭を燒拂い掠奪を恣にし軍隊出動」
大正7年8月20日「●宇部暴動後報 死者十二名重傷者七名軍隊遂に發砲す」
大正7年8月21日「●檢擧六百餘名 惨澹たる其後の宇部 炭坑各商店悉く休業 移住民續々原籍地に歸る」
大正7年8月25日「●宇部の暴徒 四十名不起訴となる」
大正7年8月30日「●宇部の暴動 實に言語道斷な振舞 出張中なりし田口檢事談」
大正7年9月15日「●宇部暴徒取調の後 =検束者一千七百名の内= 起訴されし者三百名 當裁判所森田檢事談」
大正8年5月21日「●宇部米騒擾の大公判開廷 -被告三百四十八名ー 廿日山口地方裁判所に於て」1日
大正7年8月19日「●遊郭を燒拂ふ 山口縣下の騒擾 坑夫數千名む蜂起す」2面山口電報
大正7年8月19日「●軍隊増派 山口縣下の騒擾」7面山口電話
大正7年8月20日「●炭礦一揆 漸く解散す」山口電報
大正7年8月21日「●宇部村の群集 山を越江て逃げ去りしか 火藥工場警戒」2面山口電報
大正7年8月21日「内務省発表 ▼山口縣」7面
大正7年8月22日「▼檢擧千五百名 空砲を蔑りて騒擾を續け 軍隊より實彈射撃をうく」
大正7年8月19日「暴動尚ほ歇まず 各地の危檢状態 尚未だ全く去るに至らず 破壊と放火と繰返して演ぜらる 山口 坑夫等四千名の大蜂起 軍隊出動す」山口來電
大正7年8月20日「恐るべき兇猛振り 宇部峰地兩炭坑の騒擾 多数の死傷者出せり 周防上庄にも暴動起こる...長門宇部 軍隊の出動 群衆死傷多數 市街戰の如し」
大正7年8月21日「長門宇部 卽死十五名重輕傷數百名を出せる大慘事」6面山口來電
大正7年8月21日「内務省公報 二十日發表 宇部炭坑」11面
大正7年9月2日「暴動十四坑に及ぶ 尚蔓延の兆あり 峰地炭坑を動機に 今日までの福岡鑛務署管内に於ける騒擾」福岡來電(山口県内の炭田は当時福岡鉱務署管内)
新聞各紙記事多数筆写。