『山口県史 通史編 近代』の人権問題による回収と再配付

『県史・通史編・近代』米騒動発生地の表3-7-3(808頁)で人権侵害のため回収・刷り直し再配布

 管理主は、2018年8月に、偶然、同年3月に、『山口県史 通史編 近代』(以下『県史』と略す)の刷り直しが行われ再配付されていたことを知った。調べてみると『毎日新聞』2018年3月24日の地域版に、『県史』の大正時代の記載に人権問題に関わる記載があり、再配付された旨の記事があった。

 そこで近隣の図書館の開架図書で『県史』を確認したところ、回収版の『県史』は、すでに刷り直した『県史』(発行年月は回収版と同じようだ)に差し替えられていた。

 このことは、記載内容が、一字一句の訂正表では済まされない『県史』編さんの根幹をゆるがす問題を含んでいたことを示している。

 管理主は、米騒動の研究をしており、『県史』の宇部の米騒動に関する記載に疑問を抱いていたので、回収版の米騒動の項目のみコピーを取っていた。

 回収版と再配布版の記載を比較し、大正時代の米騒動の項目にある表3-7-3(808頁)の記載が訂正・追記されていることを確認したので、訂正箇所を以下で紹介する。

 『県史』は、この表の差別用語2か所の訂正を中心にして、刷り直し・再配付をおこなったと推察する(管理主は回収版の『県史』を所持していないため、回収版の記載内容を確認できるのは米騒動関連の項目のみであり、米騒動の記載の範囲以外の記載は確認はできない)。

 管理主は、表の再点検を行うと共に、表だけでなく、『県史』の米騒動の項目(803~816頁)の本文の記述に関しても問題点がないのか検討をしてみたい。特に、管理者の研究対象である「宇部の騒擾」の項目(810~812頁)の記載に疑問を抱いているので、重点的に検討したい。

 再検討を要すると考えたのは、表の訂正・追記箇所が多岐に及ぶにもかかわらず、本文の記載の訂正・追記が1か所も見当たらないのは不可解であることと、『県史』の米騒動に関する歴史認識に課題があるために人権問題が生じた可能性があるからである。

 尚、別版の『山口県史 史料編 近代3』の取り上げた米騒動関係史料の中で「憲兵司令官報告」(496~499頁)を取り上げているが、この史料と『通史編』「宇部の騒擾」の記述は関連していると推察する。訂正が必要と考える。ただし、『史料編』・『通史編』を通して、『山口県史・近代』全体の業績は、今後の県史研究の基礎となる価値を有していると考える。

2023.1.28更新

 

『山口県史 通史編 近代』の回収と刷り直しの報道

『山口県史 通史編 近代』の回収を連絡する毎日新聞の記事(2018.3.24付地域版)。2019.3.19更新
『山口県史 通史編 近代』の回収を連絡する毎日新聞の記事(2018.3.24付地域版)。2019.3.19更新

 記事によれば、2017年6月に県民(同和問題の研究者か)から指摘があり、「差別的表現」が発覚したという。山口県は同和問題や人権問題の解決のための啓発や教育の先頭に立っている。校正の段階で、差別的表現を見つけることができなかったのは残念だが、再発行により山口県が人権問題解決に取り組む姿勢を見せたことは評価できる。

 伝聞によれば、再発行に使われた県税は700万円であったという。

2022.3.13

人権侵害の記載と訂正の箇所

『山口県史』回収版の記載内容と再配付・訂正版

 山口県で、同和教育や人権教育を推進する立場にある県庁のお膝元で、県史に差別用語が記載されるという「事件」が起こった。結婚・就職差別を目的として使われた被差別部落の旧地名と被差別部落の差別的表現である歴史的語句が、原史料の記載のまま『山口県史 通史編 近代』に記載されていた。

 差別用語は、その言葉の中に差別意識が含まれて使用されており、受け止める側に、強い衝撃と深い傷を与える人権侵害である。

 

《回収版》『県史』の記載 

 「第三編 第七章 社会問題と社会運動 第一節 山口県の米騒動 2米騒動の勃発」の項目の「表3-7-3 米価問題をめぐる騒擾(大正7年8月)」の記載は以下の通りである。次の「〇〇」には差別用語が記載されていた。

 

①「吉敷郡山口町 13日 〇〇部落で米屋襲撃と不穏な動き(後略)。馬関14」

{「〇〇」に小字(こあざ)の被差別部落名が記載されている。「馬関14」は、『馬關毎日新聞』大正7年8月14日付の記事であり、回収された県史は、この記事の「〇〇」を原文のまま引用した。}

 

②「阿武郡萩町 16日 午後9時半頃 〇〇〇〇〇約200名、富豪を襲撃の風説(後略)。知事電報17」

{「〇〇〇〇〇」に被差別部落を意味する差別用語が史料のまま引用されている。「知事電報17」は、JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.  C08021484500(第17画像目)・「海軍省公文備考 大正7年8月16日」「米価問題に付騒擾の件2止(4)」(防衛省防衛研究所)の中の「山口縣知事電報八月十七日午后三時五十分発」の史料の引用である。海軍省以外の省の史料の確認はしていない。} 

 

 

《再配付版》『県史』の記載

前記①の訂正

「〇〇部落」→「一部落」に訂正

 

前記②の訂正

「〇〇〇〇〇約200名」→「被差別部落民約200名」に訂正

 

表のその他の追記・削除 (回収版で典拠未記載だった箇所を、再配付版では典拠を明確にしている。)

・回収版の「豊浦郡小串村 14(註:14日) 夜」には典拠が記載されていないが、再配付版では典拠①に「大原社研細川史料」が追記されている。

・回収版の「佐波郡中関村 16(註:16日)」には典拠が記載されていないが、再配付版では典拠①に「関門27(10月)」が追記されている。(「関門」は『關門日日新聞』)

・回収版の「厚狭郡須恵村 20(註:20日)」には典拠が記載されていないが、再配付版では典拠②に「山口衛戍司令部報告25(註:25日)」が追記されている。

・回収版の「厚狭郡須恵村」に、再配付版では「21(註:21日) 本山炭鉱夫、鉱山事務所襲撃 関門24(註:24日)」が一行加えられている。

・回収版の「大島郡安下庄村 19(註:19日) 夜」には典拠が記載されていないが、再訂版では典拠①に「関門21、23(註21、23日)」が追記されている。

・回収版の表の最下段の「*阿武郡須佐村 21(註:21日) 本山炭鉱夫、鉱山事務所襲撃」(註:典拠は示されていない)と表下の註の「*厚狭郡須恵村と思われる」の記載が削除されている。

・再配付版では、表下の註に「大原社研細川資料は、法政大学大原社会問題研究所所蔵「京都大学人文研細川嘉六集蔵米騒動関係資料」を指す」が追記されている。

・再配布版では、表下の註に、「「徳山市公文」は「諸家文書 東船町西区文書」を指す。」が追記されている。

・回収版の表下の註の「典拠②:『陸軍省大日記』各知事電報より作成」は、再配付版では「典拠②:『陸軍省大日記』知事宛電報・陸軍宛電報より作成」に訂正・追記されている。

(以上2018.8.19 管理主記載。10.5更新)

 

《回収前》『県史』の記載 

 「第三編 第七章 社会問題と社会運動 第一節 山口県の米騒動 2米騒動の勃発」「表3-7-3 米価問題をめぐる騒擾(大正7年8月)」の回収前の表。黒塗りの2箇所に差別用語が記載されていました。

 書き込みは管理主が行っています。汚いですがご容赦ください。

2021.11.12追記

訂正後の再配布版の表

画像の橙色が前記①・②(前記画像の黒塗りの2箇所)の訂正箇所。

画像の緑色がその他の追記された箇所。

県史通史編近代808頁。訂正後の表。2018.10.6更新。
県史通史編近代808頁。訂正後の表。2018.10.6更新。

再配付版の表3-7-3(808頁)の再点検

《記載の誤まり》(作成中)

「都濃郡徳山町」の「20」日に「日本金属徳山製錬所100余名賃上げ要求」とあり、典拠①に「馬関24」とある。→日本金属徳山製錬所は都濃郡太華村(クリック・内部リンク)であり、徳山町ではない。

『山口県史 通史編 近代』「宇部の騒擾」の記載(通史編 近代 810~12頁)の検討

《歴史的事実が誤って記述されている箇所》

810頁4行目「大正七年には五万二〇〇〇人を数え」(誤)→宇部村の大正7年の人口は、35、165人である(『宇部市制十年誌』昭和七年)。「大正七年には五万二〇〇〇人」の典拠が不明であるが、なぜこのような明らかな基本的な数値の誤まりが校正されなかったのだろうか。2年後の日本最初の『大正九年国勢調査』では、宇部村の人口は38、063人である。

810頁15行目「東見初炭鉱主渡辺祐策」(誤)→東見初炭鉱頭取が貴族院議員藤本閑作であることは、基本事項である。執筆・校正の際、史料の検討を怠り、史料批判をせずに引用したことによるミスであろう。県史の文脈からは「沖ノ山炭鉱頭取渡辺祐策」と記載すべきところである。

(記載の典拠は、アジア歴史資料センター(JACAR)C03011253500(第1368画像目・史料番号1559)「米価騰貴に基く各地騒擾の件」(防衛省防衛研究所 陸軍省大日記 大日記乙輯 大正8年)とみられるが、この史料は誤りが多く検討しなければならない。

810頁15行目「三割増給を承諾」(誤)→史料(②と同じ史料中の山口衛戍司令官報告(第304画像目・史料番号0501)、または、憲兵司令官報告(第1368画像目・史料番号1559)を典拠にしたとみられる)をそのまま引用したことによる誤謬である。三割増給を承諾していれば米騒動は起こらなかったのだから歴史認識も検討が必要である。三割増給(沖ノ山本坑鉱夫は3割増給を要求したが1割5分の回答だった。沖ノ山新坑鉱夫は5割増給を要求したが1割5分の回答だった)を承諾しなかったから米騒動が発生した。炭鉱側が三割増給を行ったのは米騒動発生後のことである

811頁13行目「全員が退去したのは八月二十六日だった」(誤)→8月30日(クリック・内部リンク)が正しい(クリックした後、「宇部村米騒動の出動兵力の定数と実数」の項目の「宇部の米騒動軍隊出動兵力数」の表(管理者作成・典拠記載)で確認してください。)。8月26日(27日(同史料・第406画像目・史料番号0602)が正しい)に最後の中隊が帰還したが、1小隊23名が残置された(取調が未済のため)。23名は8月30日に山口町宮野の連隊に帰還した。県史の記述の典拠は、アジア歴史資料センター(JACAR)C03011253500(第346画像目・史料番号0543)「米価騰貴に基く各地騒擾の件」(防衛省防衛研究所 陸軍省大日記 大日記乙輯 大正8年)の「二十六日ニハ全部ノ撤退ヲ命シ以テ之レカ終結ヲ告クル豫定ナリ」とみられる。この予定は、嫌疑者の取調べが遅れたため、前記のように変更されている。

最終更新2020.8.24