安下庄町

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「安下庄町騒擾事件予審終結決定」の一部(法政大学大原社会問題研究所所蔵)

 

「理由

 

大正七年夏諸種ノ物價大ニ騰貴シ就中米價頻頻ニ暴騰シ其底止スル所ヲ知ラサルカ如キニ至リ細民ノ窮苦謂フヘカラス是ニ於テ帝国所々ニ騒擾起リ同年八月ニ至リ山口縣大島郡安下庄漁民亦形勢不穏ノ徴アリ町当局並ニ米商等之ヲ憂ヒ之ヲ恐レ同月十六日町長〇〇章三ハ町會ヲ招集シ其救済ノ策ヲ議シ同月十七日区長會議ヲ召集シ町民位数六十等ノ處五十八等以下ノモノニ対シ先以テ白米ヲ廉賣スルコトト為シ町内米商等亦十七日集會ヲ催シ各自相当ノ義捐ヲ為シ白米廉賣ノ決議ヲ為シ各区長又ハ其地ノ米商ニ依頼シ以テ廉賣スルコト﹅為シ同月十八日ヨリ之ヲ開始シタルモ未タ之ヲ被告等各漁民ニ周知セシムルノ暇アラス同日午後八時□□部落民先ツ蹶起シ同字米商〇〇国太郎方ヲ襲撃破壊シ同字酒商〇〇縫之助方ニ及ヒ其レヨリ東ニ向ヒ同字米商〇〇清千代〇〇右エ門方ニ押寄セ字□ニ至リ米商〇〇春五郎〇〇七之丞方ニ押寄セ各暴行破壊シ更ニ進ミ字□□ニ至リ同地ノ米商〇〇伊八方ニ押寄セタリシカ此時ニ方リ□青年會ノ例會ヲ同字〇〇伊八方ニ開會シ談騒擾ニ及ヒ居リシ処□□部落民ノ呼号叱咤□部落ニ押寄セ來リタルヲ聞クヤ断然起チテ之ニ應セント欲シ各其後ヲ追ヒ□□ニ馳セ〇〇伊八方ニ於テ之ト合同シ益々暴行破壊ヲ恣ニシ終リテ一同西ニ向ヒ前示〇〇七之丞所有養蚕室物置及ヒ字□前示〇〇春五郎方土藏酒商〇〇藤三郎方並ニ米商〇〇重一方ニ押寄セ其一部ハ再ヒ〇〇鍵之助方ニ押寄セ一同更ニ□□ニ向フヤ幾分ノ部落民復タ之ニ加ハリ順次同字〇〇惣太郎方並ニ質商〇〇儀作方及米商〇〇光藏〇〇虎一及醤油商〇〇弥六米商〇〇平次郎方等ニ押寄セ何レモ暴行破壊シ此前後ニ於テ字□□ノ部落民モ多少之ニ加ワリ数百千名大擧シテ字□□ナル安下庄町中第一流ノ資産家〇〇春雄方ニ押寄セ屋内ニ乱入シ家具ヲ破壊シ金銭ヲ強奪シ春雄ヲシテ殆死ニ至ラントセシメ妻マス母ウタ弟〇〇恭亮ニ対シ暴行傷害ヲ加ヘ遂ニ火ヲ放チテ其家ヲ焼失セシメ字□□ナル米商ニアラサル〇〇滝之助方ニ押寄セ其妻キヌヲ傷害シ米商〇〇新之助方ニ押寄セ暴行シ西ニ向ヒ字□□□ニ押寄タリ是ヨリ先キ□□□部落民ハ已ニ同地ノ米商〇〇伊右エ門方ヲ襲撃破壊シ米商〇〇福太郎方ニ押寄セ暴行セントセシ際安下庄町長〇〇延藏ノ説諭スル所(註旧字)ト為リ一同萬歳ヲ唱ヘ退散セシト為シ居リシ処偶前示東方ノ大群集押寄セ來リシヲ以テ復々之ト合同シ更ニ○○伊右エ門方ニ押寄セ破壊シ進ミテ西ニ向ヒ字□○○亀槌、○○虎吉、○○長松○○峰太郎方ニ押寄セ破壊シ峰太郎方醤油藏ニ火ヲ放チシモ焼失スルニ至ラス進ミテ○○米一、○○ツネ方ニ押寄セ暴行シ更ニ引返シ字□□□ニ向ヒ〇〇清一方ヲ襲撃破壊シ○○治右エ門方○○坂一方ニ押寄セ坂一方ニテ酒食ヲ供セシメ居レル際久賀警察署長坪倉省吾ノ説諭スル所ト為リ翌十九日午前一時頃解散シタルモノニシテ其暴動区域東西約三十町被害戸数三十戸損害約十五萬円ニ至ラシメタルモノ也而シテ其各部落被告人ノ行為左の如シ」

 

〇〇は姓。口口は地名。

海軍の出動

アジア歴史資料センターRef.A06030016200 『昭和14年調・大正7年に於ける所謂米騒動事件の概要』・警保局保安課・第三係。丁数0199・0200。ページ336・337。文中の輪郭は管理者が付けた。拡大可。

鎮静化のために海軍が出動した県内では唯一の例です(他の市村は陸軍)。

JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C08021484400、海軍省 公文備考 大正8年 騒乱 巻120 米価問題ニ付騒擾ノ件2止(3)。管理者が画像化。

海軍の便せんに記載されている貴重な史料です。帝国海軍の第一艦隊は戦艦、第二艦隊は重巡洋艦隊です。史料中の「十九日午後八時屋代島安下庄二暴動起リ」の「十九日」は「十八日」の誤りです。

8月19日日没後から、重巡洋艦金剛、比叡の艦載水雷艇3隻に分乗して将校と20名の兵士が上陸したことや金剛、比叡両艦が探照燈で陸上を照射して威圧したことがわかります。 


新聞記事

≪馬關毎日新聞大正7年8月20日≫「▲縣下の騒擾 安下庄町 〇〇氏邸燒かる」。「約千人の群集」(久賀發電)。記事略。

≪關門日日新聞大正7年8月20日≫「●安下庄にも蜂起 富豪を襲ひ殺さんとし遂に同家に火を放ち全燒せしむ」。記事略。 

≪關門日日新聞大正7年8月21日≫「●安下庄尚不穏 陸戦隊派遣承諾 飛行機で暴民を威嚇す」。

「大嶋郡安下庄村暴動は幾分鎮静せるも尚不穏の状態にあり坪倉久賀署長署員及各駐在巡査を召集し警戒し岩國よりは新谷檢事来安わか屋旅館を本據とし暴行者檢擧をなし居れるが十九日林郡長は海軍に交渉して萬一の際陸戦隊派遣の承諾を得艦隊にては同夜探海燈を以て陸上偵察をなし陸上の合圖により陸戦隊を上陸せしむる準備を整え居たるため同夜は、幸無事なりし尚ほ二十日午前六時艦隊飛行機は安下庄の上を低空飛行し暴民を威嚇し當分安下庄にありて警戒に任ずる」 

≪關門日日新聞大正7年8月23日≫「●其後の安下庄 在米僅かに二日分 なお暴動の處あり」。記事略。

≪馬關毎日新聞大正7年8月25日≫「●未だ不安なる大島郡 安下庄の檢擧者2百餘名 ▲米は町役場で販賣せよと言い ▲諸物價をも引下げよと叫ぶ」。一部。

安下庄で22日、日良居村で22日不穏。久賀町で切符を廃し町役場で販賣すべしと要請した。

 

司法

騒擾事件調査票

国立公文書館アジア歴史資料センター「米価問題に付騒擾の件2止(14)」(レファレンスコードc08021485500)の「騒擾事件調査票」55~82ページ(番号1527~1554)。次の表は、この史料の中の「騒擾犯人身位別表」(70ページ)です。

裁判

≪大正7年(1918)≫

『關門日日新聞』大正7年8月24日。「●安下庄暴動嫌疑者召喚 豫審判事来郡」。記事略。 

『關門日日新聞』大正7年8月30日。「大島暴徒の押送」。要約。

暴徒14名は27日午後3時水上署防長丸で新港まで押送、岩国分監に収容。今後30余名収監の見込み。 

『馬關毎日新聞』大正7年8月31日。「●大嶋郡の暴徒 十七名護送

「大嶋郡安下ノ庄町米暴動被告十七名は下關水上汽船防長丸にて廿九日午前十時玖珂郡新港に着岩國署より末岡部長外四名の巡査出張岩國監獄へ護送せり」

『防長新聞』大正7年8月31日。「●米暴徒収監 ▽卅一名は廿九日迄に▽残員は目下取調中」。記事略。

『關門日日新聞』大正7年9月5日。「●安下庄の暴徒 續々自首す」。要約。

予審判事、検事3名は久賀署員を督励して嫌疑者300余名取調べ。自首70余名。 

『防長新聞』大正7年9月6日。「●檢擧一段落 ▽九十一名は豫審へ▽〇〇氏の東京移住」。記事略。 

『關門日日新聞』大正7年9月9日。「●岩國分監の此頃 =物價騰貴も大した影響はないが 臺灣米が蘭貢米に變つた= 米暴動の被告は頗る柔順」。一部抜粋。

「◇拘禁されたものは現在三十七名であるが未だ公判開廷の運びに至らぬ拘禁後の被告等は近年稀に見る程の柔順さで是を選挙違反などで収監されたる被告と比較すると非常の差異はない兎に角群集心理の及ぼす結果は實に恐るべきもので若しそれ社會の有力者が早く其救濟的方法を講じたならば」

『關門日日新聞』大正7年9月24日。「●大嶋郡米暴動豫審状況 岩國支部にて」。記事略。

『防長新聞』大正7年9月30日「久賀暴徒押送」。記事略。

≪大正8年(1919)≫

『馬關毎日新聞』大正8年4月19日。「●大嶋郡米暴動の記録實に二萬枚 群集心理の發動にあらずと 佐藤岩國豫審判事は語る」。記事略。  

『防長新聞』大正8年4月19日「安下庄暴動 ▽百三十七名有罪」。要約。

昨年8月18日午後8時ころより安下庄町に米一揆起こり被害戸数30戸合計損害見積り價格15万円に上る。加盟を勧誘した暴徒〇〇金作外162名(1名死亡)は爾来岩国分監に押送拘禁され岩国支部裁判所佐藤判事の係りで予審進行中の所、本月7日に終結、20名は免訴、4名は管轄違いで放免され、其他137名は騒擾放火強盗家宅侵入建造物破壊及び器物毀棄等の罪名の下に山口地方裁判所公判に付すべき有罪の決定を受けたが、同裁判所で書類整理中で決定書全文の公表は本月末頃なるべし。 

『防長新聞』大正8年6月8日。「●安下庄暴動 ◇公判は十九日」。要約。

昨年8月、米価騰貴に際し騒擾を起こした〇〇〇〇〇外136名に対する騒擾事件公判は来る19日より28日まで10日間山口地方裁判所で開廷予定裁判長は判事三浦通太氏。

『防長新聞』大正8年6月20日。「●愈開廷の安下庄暴動 ▽十九日より廿八日まで」。

「昨年八月米價暴騰に際し騒擾を起こしたる大島郡安下庄町漁民〇〇〇〇〇外百三十六名に對する騒擾事件公判は既報の如く昨十九日午前山口地方裁判所公廷に於て篠原裁判長係り大原三浦兩判事陪審森檢事干與にて開廷せるが弁護人は三木、弘中、吉田の三辯護士にて本月二十日より二十六日まで事實審理あり二十七八の兩日辯論ある豫定なり」

『馬關毎日新聞』大正8年7月13日「安下庄米暴動の判決」。記事略。

 

關門日日新聞(大正8年5月5日~13日。9回連載)

『關門日日新聞』は予審終結決定を詳細に連載記事としている。他の史料では、前記のように大原社会問題研究所が安下庄町騒擾事件予審終結決定書の筆写史料を所蔵している。

5月5日「●安下庄町の米騒動結審 被告百六十一名 内二十五名は免訴

...豫審終結決定...主文...。

5月6日「●安下庄町の米騒動結審(續) 被告百六十一名 内二十五名は免訴

△被告〇〇與太郎...△被告〇〇淸一...△被告〇〇吉藏...△被告〇〇權之助...△被告〇〇市三郎...△被告〇〇勝次郎...△被告〇〇熊太郎...△被告〇〇久吉...△被告〇〇廣助...。

5月7日「●安下庄町の米騒動結審(續) 被告百六十一名 内二十五名は免訴

△被告〇〇七郎...△被告〇〇文吉...△被告〇〇平助...△被告〇〇鶴吉...△被告〇〇平八...。

5月9日「●安下庄町の米騒動結審(續) 被告百六十一名 内二十五名は免訴

△被告〇〇和一...△被告〇〇岩一...△被告〇〇久一...△前示決議に...△被告〇〇要助...。

5月9日「●安下庄町の米騒動結審(續) 被告百六十一名 内二十五名は免訴

▲〇〇〇...△被告〇〇安五郎...▲其の暴動に...△〇〇繁市...▲前示小屋に...△被告〇〇萬吉...。

5月10日「●安下庄町の米騒動結審(續) 被告百六十一名 内二十五名は免訴

...△被告〇〇菊市...△被告〇〇德一...△被告〇〇藤吉...▲〇〇...▲〇〇〇...△被告〇〇孫一...。

5月11日「●安下庄町の米騒動結審(續) 被告百六十一名 内二十五名は免訴

▲〇〇...▲〇〇〇...△米商に交渉...△被告〇〇七郎...△被告〇〇熊市...△被告〇〇彌太郎...△被告〇〇庄助...。

5月12日「●安下庄町の米騒動結審(續) 被告百六十一名 内二十五名は免訴

△被告〇〇作藏...△〇〇八郎...△被告〇〇兼吉...△法律に照すに...。

5月13日「●安下庄町の米騒動結審(續) 被告百六十一名 内二十五名は免訴

△被告〇〇岩一...△被告〇〇良一...△被告谷五郎... 山口地方裁判所岩國支部 豫審判事 佐藤義道

一審判決

次の表は、安下庄町騒擾事件予審終結決定と一審判決の一部をまとめたものです。

予審終結決定は、法政大学大原社会問題研究所の『細川嘉六集藏 京大人文科學研究所 米騒動史料 山口縣1』と『米騒動の研究』第四巻151~157頁の「予審終結決定」・「該当条項」の記載により作成しています。表の一審判決は、山口地方検察庁において、山口地方検察庁保管の『大正九年刑事裁判原本綴甲』を布引敏雄と閲覧し、管理者が作成した予審終結決定の一覧表と原本綴の一審判決の記載を対照して作成したものです。(求刑は新聞記事で判明するもの。)

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PDFファイル。6ページ。管理者作成。

表中の「管轄違」の4名は、起訴後に歩兵第71連隊(広島)に入営し、現役軍人となった者。

《予審起訴された161名の職業》

漁業150名。商業3名。大工職2名。無職2名。材木商1名。祈祷師1名。理髪業1名。料理屋1名。

《一審判決》

懲役15年  1名 放火

懲役10年  1名 放火

懲役5年   3名(騒擾罪首魁1名。騒擾罪助勢者・強盗1名。騒擾罪助勢者1名)

懲役3年   2名(騒擾罪首魁2名)

懲役1年6月 2名

懲役1年   5名

懲役10月  5名

懲役8月   1名

懲役7月   7名

懲役6月  75名

懲役5月   3名

罰金30円  1名

罰金20円 27名

 <以上有罪133名>

無罪     3名

免訴    20名

管轄違    4名

       

判決不記載  1名

周辺の風景

安下庄漁港。後方は甲ノ山。山腹に山口県立周防大島高校安下庄校舎(管理者撮影・以下4画像)
安下庄漁港。後方は甲ノ山。山腹に山口県立周防大島高校安下庄校舎(管理者撮影・以下4画像)
橘総合センター(センター内に周防大島町立図書館・橘図書館)。道路の右側に安下庄小学校
橘総合センター(センター内に周防大島町立図書館・橘図書館)。道路の右側に安下庄小学校
塩宇(しおう)柑橘集荷場と「屋代富士」・「大島富士」とよばれる嵩山(だけさん。標高619m)
塩宇(しおう)柑橘集荷場と「屋代富士」・「大島富士」とよばれる嵩山(だけさん。標高619m)
三ツ松区民館と甲ノ山。幕末(慶応二年(1866))の「四境の役・大島口の戦い」では伊予松山藩軍が三ツ松・甲ノ山から上陸して一時安下庄を占領し、西安下庄の快念寺に陣屋を置きました。
三ツ松区民館と甲ノ山。幕末(慶応二年(1866))の「四境の役・大島口の戦い」では伊予松山藩軍が三ツ松・甲ノ山から上陸して一時安下庄を占領し、西安下庄の快念寺に陣屋を置きました。