管理者がグーグルマイマップで作成。黄色のピンは貼り紙(椎尾八幡)、集合地(錦河原)。
現在は都市化により旧岩国町と旧麻里布村は一体化していますが、大正期は別の自治体でした。
岩国町は藩制時代の旧行政区域である「横山」区域と横山から錦帯橋を渡った城下町の「岩国」区域を中心に構成されています。城下町は武士や町人の町であり、この地域に「岩国小学校」など「岩国」を冠した施設があります。
錦帯橋から一直線に中級武士の侍町だった大明小路(だいみょうしょうじ)が延びており、大明小路は、錦帯橋に近い「錦帯橋通り」(現国民宿舎「半月庵」の前身の旅館などがあった)と「大明小路」(現山口銀行の前身の百十銀行などがあった)に二分されています。この二つの通りの境に交差する大きな通りの突き当りの小高い山の上に椎尾八幡宮があります。
一方、麻里布村は、現在の岩国市役所や岩国駅のある今津町や麻里布町を中心とする地域です。
1940年(昭和15)に岩国町・麻里布町(麻里布村は1928年(昭和3)町制)・川下村・愛宕村・灘村が合併して岩国市となりました。
米騒動は岩国町と麻里布村で発生しました。
《防長新聞大正七年八月二十日》岩国町 柳井の第二回事件と呼応して騒ぎ立ちたるも内巨魁と認むべき者一名を騒擾罪として拘束し他は直ちに解散せり玖珂郡麻里布村にも岩国と時を同うして群集蜂起し示威運動を試めるも之亦直ちに解散せり
アジア歴史資料センターB08090136700『大正七年七月ニ於ケル米騒擾ニ関スル件』≪山口県報告≫。茶色の輪郭は管理者が付けた。(画像をクリックすると拡大します。)
国立公文書館アジア歴史資料センター「米価問題に付騒擾の件2止(14)」(レファレンスコードc08021485500)の「騒擾事件調査票」55~82ページ(番号1527~1554)。次の表は、この史料の中の「騒擾犯人身位別表」(70ページ)です。
『關門日日新聞』大正7年11月15日。「●岩國柳井の米暴動公判 岩國裁判所にて」。要約
8月14日朝、椎尾神社下の燈籠に、米価調節町民大会米商へ強談、14日午後8時より錦河原にて集会の張紙。同夜呼子笛、本町國広米店を襲うとして七八百の群衆が殺到、〇〇は20銭の廉売張紙をださせ、〇〇は豆桶を覆さんとするなど不穏な行動をとったため、同店が廉売の張紙を出すと万歳を連呼した。その後、魚町、登富屋町、大明小路、善教寺、新小路の店に20銭の廉売を強要して張紙を出させた。終始被告ら6名が行動を共にして先頭に立ったと新谷検事が審問、被告否認、種田判事は証人を喚問することにして閉廷。
『馬關毎日新聞』大正7年11月17日。「●米暴動公判」要約
13日午後1時、岩国裁判所で開廷。 岩国町6名、柳井米暴動4名の10名の公判。
『防長新聞』大正7年12月7日。「●米騒動公判」。要約、「」は引用。
8月14日朝、椎尾八幡石灯篭に
「米問題に付今夜八時錦川原へ集合せよ」の貼紙。町民殊に野次馬連、錦川原に群集約数百人集合。「米高の為苦む者は豈阪神地方のみならむや當地に於ても不當の利を貪る米商を膺懲せざる可らず」との意味を演説した者があった。群集は之に賛成して鯨波の声を挙げ、本町1丁目米商國廣光藏方へ投石、「防長白米1升金20銭」の貼紙をさせ、町内各米商を威嚇して同様の貼紙をさせ、最後に新小路町米商村重助槌方に押し寄せ野次つた。岩国署長以下の警官駆けつけ鎮撫。國廣長男政一に廉売談判した岩国電鉄車掌1名、同家店頭の雑穀桶を覆そうと身構えた畳職1名、群集中で煽動的行為のあった古物商1名、石工職1名、他に1名、麻里布村1名の6名に拘わる騒擾罪被告事件。第二回公判が5日午前10時岩国區裁判所で開廷。前記國廣、村重と國廣光蔵いとこの代書人白金長槌を証人喚問。多くが警察署検事廷の供述と相違。17日、当時警戒していた岩国署詰富士見刑事を証人喚問を告げ正午閉廷。
『馬關毎日新聞』大正7年12月19日。「●岩國米騒擾 實地檢分されん」。要約
11月13日午後1時公判。第3回公判17日開廷。岩国署富士見刑事が証人として出廷し、種田判事の尋問に対し陳述。不日、実地検分決定。
日稼1名(首魁)20代。畳職1名20代。屑物商1名30代。石工1名20代。大工1名20代。麻里布村木挽職1名30代。
『防長新聞』大正7年12月19日。「●岩國騒擾公判 ◇富士見刑事の出廷」。記事略。
『馬關毎日新聞』大正8年2月21日。「●岩國米騒動の公判開廷 検事懲役を求刑」。要約。
20日午前10時より岩国区裁判所にて新谷検事係にて開廷。裁判長より被告数十名に対し型の如き尋問あり。検事の論告の後、3名を懲役1年、1名を懲役8月、2名を懲役6月を求刑し、午後1時半閉廷。
県内の米騒動では、神社が群衆の集合場所になっている場合が多くみられます。岩国町の米騒動では、集合の日時、場所を知らせる貼紙が「8月14日朝、椎尾八幡宮下の燈籠」に貼られました。次の画像から、「椎尾八幡宮下」は岩国地域の中心地にあり、人通りが多く、人目に付きやすい「常夜燈」に貼れば遠くからでも目立つ場所であったことがわかります。貼紙を貼るには最適の場所で、1枚の貼紙を効果的に使うことができ、集会の情報は町中に一挙に広まったと考えます。
貼紙をした椎尾八幡に集合するのが自然と思われますが、なぜ他の町村のように椎尾八幡を集合場所にしなかったのか考えてみましょう。以下は管理者の推察です。
椎尾八幡は急峻な石段を登らなければならないため集合場所として適さないと判断されたと考えます。また、集合場所となった他町村の神社の境内が平地なのに対し、椎尾八幡だけが山上にあり、さらに最も境内の面積が狭く、数百人が集合するのは困難だったと思われます。錦河原は、繁華街や椎尾神社から近くて広く、集合場所として最適であったと推察します。
当初の山陽本線岩国駅・櫛ヶ浜駅間は、現在と同じように柳井駅経由であり、米騒動当時の岩国駅は麻里布村(現在の岩国駅)にありました。
昭和4年(1929)に岩徳線が部分開通した時に、錦帯橋のある岩国町に岩国駅が開業しました(麻里布村にあったそれまでの山陽本線岩国駅は麻里布駅に改称されました)。
昭和7年(1932)に岩徳線が岩徳東線となり、昭和9年(1934)に岩徳東線が全通して山陽本線麻里布駅と櫛ヶ浜駅を結ぶ山陽本線の新線となり、岩国町の岩国駅は錦帯橋観光客が乗降するなど全盛期を迎えました。
昭和15年(1940)に岩国町や麻里布町などが合併して岩国市となり、昭和17年(1942)には岩国市繁華街の麻里布駅が岩国駅の名称に戻り、錦帯橋近くの岩国駅は西岩国駅となりました。
さらに、昭和19年(1944)には、山陽本線岩国駅・櫛ヶ浜駅間がもとの柳井駅経由に戻り、西岩国駅は岩徳線の所属になり、現在に至っています。