福川町

管理者がグーグルマイマップで作成。茶色のピンは集合場所。

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山口県の初期の米騒動発生地・8月12日福川小学校運動場

当HPは山口県内の米騒動が初めて発生したのは大正7年(1918)8月12日の都濃郡福川町とします。 

 

 米騒動は 富山県に始まり、大規模な暴動は、10日・京都市・名古屋市、11日大阪市、12日神戸市・広島市・呉市・金沢市、13日がピークで東京市・呉市・静岡市・和歌山市・岡山市・福井市で発生しました。

山口県では、12日福川町、13日柳井町・小串村で発生した。米屋襲撃などの暴動化した米騒動としては柳井町・小串村が最初でした。

 

8月10日に防府町の一町民が警察に米価引き下げの陳述をしますが当HPは米騒動と考えません(『山口県史 通史編 近代』808頁表では最初の騒擾を8月10日の防府町としています)。

高森村では、8月11日に、「これよりさき、高森村(玖珂郡)では、十一日に浄泉寺で村民大会を開いて、米移出の禁止と外米買入れを決議して村長に要求し」(『山口県政史』上巻578頁)ています。高森村では、米価引き下げの強制など、街頭の騒動の企図や騒動の発生はなかったとみられます。警察官の派遣も確認できず、検挙者もなく、不穏な状況も生まれなかったと推察します。これらのことから、当HPでは福川町民の集会(警察の説得で解散)を県内最初の米騒動に位置づけました。

 

展開

山口県知事報告

アジア歴史資料センターB08090136700『大正七年七月ニ於ケル米騒擾ニ関スル件』下右≪山口県知事電報≫8月13日。下右≪山口県報告≫。茶色の輪郭は管理者が付けた。(クリックすると拡大します。)

 


新聞記事

『關門日日新聞』大正7年8月15日。「▲福川町も形勢不穏 目下極力警戒中」。要約。

12日に何者かが米価高騰を協議するため小学校運動場に集まれと大書した辻ビラを掲出しました。派出巡査部長は驚き、徳山署長の指揮を仰ぎ、嫌疑者2名を検挙し派出所に連行した。辻ビラの撤廃を命じ、集会中止の広告を出したのち二人を帰宅させました。夜に入り、小学校校庭に百数十人が参集し、増加の傾向があり、巡査部長が現場で説諭して無事解散しました(福川町の検事処分者はありません)。

 

『關門日日新聞』大正7年8月23日。「●困窮せる福川漁民 頑迷な町当局 漸く廉賣開始」。要約、「」は引用。

8月12日の集会解散以後、町当局は21日まで「何等救済の方法を講ぜざるため之等漁民の憤慨その極に達し何時一大事件の勃発するやも計り難き形勢」となった。町当局は米商に責任を転嫁したため、町の有志者は郡内各町村、県内をみても窮民救助の途を講ぜざる町村はないと憤然とした。徳山署長が21日早朝出張し、町会員・有志の集合で窮民救済を説き、窮民代表数十名を招集して説諭したため、町当局も米商を招集して損失額を町が負担して廉売を実施した。

集合地・福川小学校運動場

画像をクリックすると拡大します。

福川小学校のグランド側正門(校地西側から東方向に向かって撮影・左側が北)・管理者撮影(以下5画像)
福川小学校のグランド側正門(校地西側から東方向に向かって撮影・左側が北)・管理者撮影(以下5画像)
福川小学校全景。右奥(旗の右下・サッカーゴールのあたり)に古い石の門柱が見えます。
福川小学校全景。右奥(旗の右下・サッカーゴールのあたり)に古い石の門柱が見えます。
小学校旧正門前の道路(前方が南・海側)
小学校旧正門前の道路(前方が南・海側)

福川駅に通じる通り(旧正門の反対側・校地東側)に車の乗り入れできる正門があります。
福川駅に通じる通り(旧正門の反対側・校地東側)に車の乗り入れできる正門があります。
小学校の正門を海側に下ると山陽本線福川駅です。
小学校の正門を海側に下ると山陽本線福川駅です。