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須恵村は、現在の山陽小野田市中心部から焼野(やけの)海岸・きららビーチ・本山半島にかけての村です。同村小野田町に舎密(せいみ)会社(硫酸会社。「日本舎密製造会社小野田工場」[現日産化学工業株式会社小野田工場])とセメント会社(「小野田セメント製造株式会社」[現太平洋マテリアル株式会社小野田工場])があり、南部の本山岬近くに本山炭坑(米騒動時は大日本炭礦株式会社経営)がありました。須恵村は、大正9年(1920)に単独で町制を施行し、小野田町となりました。
《享保年間(1716~1735)の須恵村(家数600、2645人)の小村》(『地下上申』)
上中野村・下中野村・黒石村・大目出村・小目出村・旦村・岡村・妻崎浦・原村・野来見村・松原村・浜河内村・須賀村・苅屋浦・城戸浦・礼泉村・北村・本山新浦
《安永4年(1775)2月》
須恵村が東須恵村と西須恵村に分立する。
《天保年間(1830~1843)の東・西須恵村の小名》(『風土注進案』)
【東須恵村(家数236、1044人)】上中野・中野・黒石・現海・目出・旦
【西須恵村(家数767、3511人)】田屋・岡・原・妻崎・松原・野来見・須賀・浜河内・本山・苅屋
《大区小区制 М6(1873)》
東・西須恵村は第12大区第11小区。
【東須恵村】苅屋浦(かりやうら)・木戸浦(きどうら)・波瀬ノ崎(はぜのさき)・松原開作(まつばらがいさく)・小野田古開作(おのだふるがいさく)・田屋(たや)・岡村・黒石(くろいし)・中野・目出(めで)・小野田新開作
【西須恵村】妻崎浦(つまざきうら)・原村・野来見(のぐるみ)・須賀(すか)・浜河内(はまかわち)・本山新浦(もとやましんうら)
《郡区町村編成法 М11(1868)》
厚狭郡東須恵村、西須恵村となる。
M12(1869)に県令に具申し、戸長役場が東須恵村と西須恵村に分立。
【東須恵村管轄】木戸・刈屋・波瀬の崎・松原・小野田古開作・田屋・岡田・黒石・中野・目出・旦・小野田新開作
【西須恵村管轄】妻崎浦・原・野来見・須賀・浜河内・本山新浦
《М13(1870)自然地理的原則で須恵半島の稜線を境に東・西須恵村に分属》
【東須恵村】須恵半島の稜線以東。戸長役場・流川。戸数563、2633人。(西須恵村の妻崎浦・原は東須恵村へ)
【西須恵村】須恵半島の稜線の以西と本山半島一帯。戸長役場・西の浜。戸数770、3441人。(東須恵村の木戸・刈屋・波瀬の崎・松原・小野田古開作は西須恵村へ)
《市制町村制 М22(1889)》
【須恵村】西須恵村がそのまま単独で須恵村となる。(米騒動T7(1918)はこの時代の須恵村で発生した。)
【厚南村】東須恵村・沖ノ旦村・際波村・中野開作村・妻崎開作村が合併して厚南村となる。(S16(1941)宇部市に編入)。
《小野田町》
T9(1920)須恵村が町制を施行して小野田町となる。
《小野田市》
S15(1940)小野田町と高千帆町が合併して小野田市が発足。
[高千帆町]有帆村、千崎村、高泊村(安政4年(1775)に東西に分割)の各一字をとって「高千帆」という。М22年(1889)の町村制の施行により、高畑村、西高泊村、東高泊村、千崎村、有帆村が合併して高千帆村となった(S13年(1938)町制施行により高千帆町となる)。
《山陽小野田市》
H17(2005)小野田市と山陽町が合併して山陽小野田市となる。
(以上典拠『小野田市史』(S37年(1962)3月)、『小野田市史 通史』(H2年(1990)11月))。
2022.12.8更新
≪關門日日新聞大正7年8月21日≫「●小野田の警戒 厳重なりしため無事」。抜粋。
「18日に至り前夜宇部村新川の大暴動が小野田波及せんとするの情報あり長富署長の苦心一方ならず遂に村當局熟議の結果村内在郷軍人青年會消防組及び擁護團の應援を得て極力小野田の治安維持に勉めつゝありしに」「新川の暴徒をして一歩も厚南村内に侵入せしむべからずと厚南村青年會在郷軍人消防組等に各地よりの應援巡査數十名を加へて厚東川の堤防に大警戒線を張り一方小野田の防衛を嚴重にする處ありたれば遂ひに無事なるを得たり」
①≪馬關毎日新聞大正7年8月21日≫「●流言に脅かさるゝ小野田 △警戒頗る嚴重を極む」
「小野田町にては十七日午後十一時頃〇〇町〇〇米商店に「朝鮮人」(原文は差別語)約五十名群集して押寄せ主人を呼出し白米値下げの事を以てし不穏の形勢あるより小野田分署長は取敢ず現状に駆付け双方鎮撫の結果内地米一升三十銭に値下げする事となりて折合ひたり(中略)十九日は本縣保安課及び德山三田尻豊浦の各警察より三十名の應援巡査來小し警戒極めて嚴重なるも二十日未明本山炭坑及び西見初炭坑々夫須惠村花河内(註:浜河内か)の〇〇米商店を襲撃せりとの蜚語流布され人心更に不安混沌を極めつゝあり」(西見初炭鉱の頭取は東見初炭鉱[宇部市見初地区{現在のフジグラン周辺}]と同じ藤本閑作貴族院議員で、現在の山口東京理科大の海側附近に坑口があった。)
≪防長新聞大正7年8月22日付≫「小野田警戒」。
「小野田には小野田セメント會社の外に炭坑あり舎蜜會社あり現に六千程の勞働者入り込み居る事とて此際不穏の事有りはせずやと其筋にても十分に警戒し十五日以来四十名の警官を増援として派遣しある有様なるが同地にては會社側は殆んど不眠にて各自其會社の取締をなし警察側にては青年團消防夫を督して各要所々々を警戒し一切船木其他外部との交通を絶ち居るため勞働者は何れも眞面目に働き居る様子なり尤も二十一日は某隊より〇〇隊を急派せるやの風説あれば同地の警戒は益々行き届き居る筈にて無事なるを得べしといふ」(註:小野田は、須恵村の中心でセメント会社や舎蜜会社(硫酸会社)がある。本山炭坑は須恵村南部の本山岬付近の海岸に坑口(上記グーグルマイマップ))があった。米騒動時は、大日本炭礦株式会社であった。)
≪關門日日新聞大正7年8月24日≫「●本山炭坑 暴徒襲撃 軍隊派遣さる」。記事略。
①・②≪防長新聞大正7年8月25日≫「●本山炭坑も ▽暴徒起り略奪的行為▽をなし軍隊派遣さる」。要約。
「厚狭郡須惠村本山炭坑にては米価暴騰以来内地米1升25銭宛にて売却し且坑夫の優待方法にも頗る留意する處あり」。19日午後8時ころ数十名の暴徒が起り、付近の商店を襲い、米穀類、煙草類まで半額販売を要求してほとんど略奪に近い行為を行って引きあげた。20日午後9時宇部方面より1個小隊を派遣して警戒した。21日夜も百数十名の暴徒が炭坑事務所を襲撃し、多少の暴行を働いて引き揚げた。目下の状態なら他に波及することはない。
「厚狭郡須惠村 同月十九日村内西見初炭坑の坑夫多數隣村宇部村の暴動に刺激せられ炭坑事務所前に集合し、賃金値上及び物價の値下を強要し、且附近の商店に押寄せて金品及酒食を強要提供せしめたり。」(176頁)
2022.12.7更新
アジア歴史資料センターC03011253500『米価騰貴ニ基ク各地騒擾ノ件』。「山口縣厚狭郡宇部村暴動ニ對シ鎮圧ノ為メ軍隊出動ニ関スル件詳報」(大正七年八月二十五日。山口衛戍司令官→陸軍大臣)。
前記の吉河「研究」よれば、19日に西見初炭坑坑夫は、宇部村の米騒動に刺激を受け、炭鉱事務所に賃上げと販売物の値下げを要求した。須恵村(現山陽小野田市)と厚南村(現宇部市)の境(現在の山口東京理科大の南側附近に坑口)にあった西見初炭鉱と宇部村見初地区の東見初炭鉱(現在のフジグラン附近)は頭取が同じ貴族院議員藤本閑作で、労働環境が同じとみられ、宇部村の影響を受けたのではなかろうか。その後、20日未明、本山炭坑(大日本炭礦株式会社)と西見初炭坑の坑夫が炭坑近くの浜河内の商店を襲撃したという噂が広まった。(「馬関毎日新聞」T8.8.21)。前記のアジ歴画像『物価騰貴に基く各地騒擾の件』では、20日に、須恵村小野田町の舎密会社や町内でも数回の暴動的行為があった。このため、20日夜、県知事の要請で宇部村に出動していた部隊から1小隊47名が小野田町に分遣された(26日まで。『物価騰貴に基く各地騒擾の件』0540番。0306番)。本山炭坑では21日も暴徒が炭坑事務所を襲撃している(『防長新聞』T8.8.25)。また、炭坑、硫酸(舎密)会社・セメント会社の労働者が相呼応する動きがあった(『物価騰貴に基く各地騒擾の件』0541番)。
2022.12.17更新
≪馬關毎日新聞≫大正7年8月25日。「納屋を包囲して逮捕 厚狭郡本山炭坑にて三十餘名檢擧」。記事略。
≪關門日日新聞大正7年8月25日≫「●本山炭礦の主謀者廿五名逮捕 =中に女子もあり=」。要約。
22日小野田署派遣の巡査が25名を検挙。
≪關門日日新聞大正7年8月31日≫「●本山炭礦暴徒五十一名拘引」。要約。
暴徒蜂起後の本山炭鑛は小野田分署の鎮撫で大事に至らず。24日以来続々検挙。既報引致者25名の他に27日ころまでに26名拘引され、尚続々検挙されつつあり、小野田分署で取調後、27日までに下関分監に送られた者は28名に上る。
国立公文書館アジア歴史資料センター「米価問題に付騒擾の件2止(14)」(レファレンスコードc08021485500)の「騒擾事件調査票」55~82ページ(番号1527~1554)。次の表は、この史料の中の「騒擾犯人身位別表」(70ページ)です。
山口県内の騒擾事件で検事処分を受けた人数は、①宇部村、②安下庄(あげのしょう)町、③向津具(むかつく)村、④富海(とのみ)村、⑤須恵村(19名)、⑥八坂(やさか)村、⑦太華(たいか)村、⑨出雲(いずも)村、⑩中関(なかのせき)村の順です。職業別では、米の消費者の鉱夫、漁業従事者が多く、米価高騰が契機となって賃上げや廉売・寄付金要求の騒動が発生しました。
2022.12.17更新
〇8月19日、21日の騒動
『關門日日新聞』大正7年8月31日。「●本山炭礦暴徒五十一名拘引 尚續々檢擧中」。要約。
二十四日以来二十五名引致の他、二十七日頃までに二十六名拘引、二十七日までに下関分監に送られた者二十八名。
『關門日日新聞』大正7年9月7日。「豫審中の米騒擾事件 當支部にては四件」。一部抜粋。
「厚狭郡小野田に於ける米騒擾事件の嫌疑者十餘名は何れも既に検事より起訴され下関支部の豫審に廻附されたるが」以下略。
『馬關毎日新聞』大正8年3月14日。「●小野田米暴動事件公判 △下關支部にて開廷」。要約。
下関支部13日午後1時開廷、午後3時半まで熱弁。15日午前10時より再開廷することになり午後四時閉廷。
『關門日日新聞』大正8年3月14日。「●本山坑騒擾公判 檢事の同情ある論告 判決言渡しは十五日」。一部抜粋。
「次の如き求刑に對し徳永辯護士は被告儀作の為に極力無罪を主張し松本辯護士は被告金藏の為に「本件は騒擾罪にあらずして警察犯處罰令に該當するものなり」と辯じて刑の執行猶豫を主張し淺井辯護士は芳市の為に「本件は他の米暴動事件に比して火事で云へば小火位なり」と最初の皮肉を浴びせて「要するに本件の輪劃を憎んで被告個人に就ての人物につき精査なきを遺憾とす」云々とて三辯護士より縷々輕罪を主張する處ありて午後三時閉廷言ひ渡しは来る十五日なり」
求刑
懲役6月30代1名。懲役1年2月20代1名。懲役8月と別に銃砲火薬違犯で罰金十圓40代1名。懲役3年(前科數犯)40代1名。懲役10月20代2名。懲役6月30代2名。懲役5月20代1名。以上すべて坑夫。
『馬關毎日新聞』大正8年3月16日。「●本山炭坑騒擾事件15日判決」。要約。
本山炭坑における騒擾脅迫恐喝被告事件公判15日午前10時より下関支部法廷に於いて吉原裁判長係りにて開廷9名言い渡し。
40代坑夫1名懲役6月と銃砲火薬法違犯罰金20円。40代坑夫1名懲役2年。20代坑夫4名懲役6月。30代坑夫1名懲役6月。(以上未決拘留百五十日通算)
2名(20代坑夫1名。30代坑夫1名)無罪。
『關門日日新聞』大正8年3月16日。「●本山炭坑の米騒擾判決」。要約。
懲役2年1名(求刑3年)。懲役6月5名(求刑1年2月1名。懲役10月2名。懲役6月1名。懲役5月1名)。「懲役罰金二十圓」1名(求刑懲役8月と鉄砲火薬違犯で罰金十圓)。無罪2名(儀作30代求刑懲役6月。芳市30代求刑懲役6月)。
笠井順八と「住吉まつり」
小野田セメント(現太平洋セメント株式会社)創業者笠井順八は萩の下級武士の出身でした。笠井は萩の住吉明神(クリック・内部リンク)を勧請(かんじょう)し、須恵村に住吉神社を建てました。山陽小野田市では毎年「住吉まつり」(クリック・外部リンク) が盛大に開催されています。
2022.12.17
須恵村小野田町(のち須恵村単独で小野田町(1920)となり、小野田町と高千帆町が合併して小野田市(1940)となる)には舎密会社(硫酸会社)がありました。製品の硫酸・硝酸の輸送容器として硫酸瓶が使われました。
硫酸瓶に関する説明は、文科大臣賞受賞の山田将輝君(山陽小野田市立小野田小学校)の調べ学習(クリック・図書館振興財団HP)と関連する記事(クリック・「トライアングル」HP)を参考にしてください。硫酸瓶は旦地区の登り窯(クリック・山陽小野田市HP)で焼成されました。
2022.12.17