生田村は現在の山陽小野田市埴生(はぶ)にあった村です。
1889年(明治22)の町村制の施行により津布田村、埴生村、福田村が生田村となる。
1948年(昭和23)生田村が埴生町となる。
1956年(昭和31)厚狭町と埴生町が合併し山陽町となる。
2005年(平成17年)小野田市と山陽町が合併し山陽小野田市となる。
生田村を米騒動の発生地と指摘した先行研究はこれまでありませんが、当HPでは「騒擾事件調査票」で「騒擾地」と記載され、また、以下の裁判の記事もあるので米騒動発生地としました。
2名が起訴されていますが、騒擾罪は適用されていないため、住民の騒動への参加は限定的で、2名が中心だったとみられます。
≪防長新聞大正7年12月25日≫「●生田村の米騒擾豫審」。要約。
8月19日夜、2名の内1名が日本刀を携帯して、埴生米穀販売同業者に対し、白米1升25~30銭の値下げを断行して予防するよう掛け合い、埴生浦米穀販売同業者間は住民に対し、20日より3日間、2升以内に限り内地米1升29銭、外米1升15銭で持ち米の廉売をした。1名は米穀商に至り内地米1斗の廉売をせまり、「貴様を始末して遣るぞ」と恐喝したが拒絶された。
国立公文書館アジア歴史資料センター「米価問題に付騒擾の件2止(14)」(レファレンスコードc08021485500)の「騒擾事件調査票」55~82ページ(番号1527~1554)。次の表(画像)は、この調査票の中の「騒擾犯人身位別表」(70ページ)で、生田村の記載がある(管理者が茶色の輪郭を付けた)。
『防長新聞』大正7年12月25日。「生田村の米騒擾豫審」(上記と同じ記事の中)。要約。
50代1名。40代1名。
農業牛馬商1名。青物商1名。
予審回付・・恐喝未遂1名。恐喝未遂、鉄砲火薬類取締法施行規則違反1名。
予審終結決定・・鉄砲火薬類取締法施行規則違反1名を公判に付す。両名の恐喝未遂は免訴。