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船木町は、旧山陽道の宿場町で、旧萩藩時代の宰判も置かれて栄えました。米騒動当時は、厚狭郡の中心地で、郡役所、裁判所、警察署がありました。宇部分署は船木警察署の分署でした。
地図から、山陽線が地域の中心地であった船木を迂回して建設されていることがわかります。建設に反対したことは、その後の船木町の発展に影響したと考えられます。このことは、熊毛郡の中心で、郡役所があった平生町でも山陽線の敷設に反対し、町の発展に影響したと考えられます。
下記の騒擾事件調査票に検事処分者1名が記載されているので米騒動発生地とした。
以下の『關門日日』の記事から、18日に白米1升25銭での販売を決定することなどにより大きな騒動は発生しなかったとみられる。『馬關毎日』の記事によれば町内の炭鉱の鉱夫が賃上げの同盟罷業をして不穏な状況があり、陸軍史料に「騒擾シ」と記載されており、検事処分者も出ているので、何らかの騒動は発生していたとみられる。
≪關門日日新聞大正7年8月20日≫「●船木町の警戒 二十五銭廉売開始」。
「厚狭郡船木町にては十七日夜来の宇部村に於ける大騒動の報に接するや十八日午前六時町會議員有志者三十餘名の集合を求め米廉賣に關し種々協議の結果向ふ1ヶ月間を第一期とし此間内地白米を金二十五銭を以て一般に對し一日一戸三升を限度とし販賣することゝし時價と差額損失は有志者の寄附に待つ事とせるが来會者其他有志者にて忽ち二千五百餘圓の申出であり一方米商店を召集し協議の結果在米全部を白米三十五銭を以て町に賣却することゝなり町は一升につき十銭の補助をなす次第なり而して直に數か所に町公設販賣所を設け又三臺の車を以て行商しつゝあり然るに宇部の餘波は漸次船木に及ばんとして種々の情報を傳ふる所より町内人心恟々として家財道具を他に移す者も尠からず警察署にては在郷軍人分會員及消防組員を召集して警備に努め又町にては區長を召集して豫防に關し種々協議する所ありて夜間は各區共夜警を實行することゝせり此情報に依り下關より應援巡査三十餘名自動車をかつて同夜十二時来援せり幸いに何等の騒動を見るに至らず」
≪馬關毎日新聞大正7年8月20日≫「▲縣下の騒擾 船木町 人心恟々たり」。一部抜粋。
「厚狭郡船木町にては十七日以来宇部騒擾の情報刻々傳へらるゝや一般町民も殺気立ち到る處流言蜚語頻々なるより同町に於ては十八日午前七時町會議員有志及米穀商五十餘名を招集し(中略)同日同町炭鑛にては採炭賃金値上を要求し全部休業し居たるも廉賣の発表と共に不穏の風雲忽ち一掃され茲に無事落着せるも各商店にては今にも暴徒の襲来せんものゝ如く(下略)」
以下の2史料は、アジア歴史資料センターRef. C03011253500『米価騰貴ニ基ク各地騒擾ノ件』。
茶色の傍線は管理者が付けた。
番号0340と番号0341の史料ですが、スマホ画面では番号0341が上になっています。
国立公文書館アジア歴史資料センター「米価問題に付騒擾の件2止(14)」(レファレンスコードc08021485500)の「騒擾事件調査票」55~82ページ(番号1527~1554)。次の表(画像)は、この調査票の中の「騒擾犯人身位別表」(70ページ)で、船木町の記載がある。