グーグルマイマップ。管理者作成。
黄色ピンは下関市役所付近。黒ピンは下関要塞司令部
下関市では「騒擾事件調査票」に記載された検事処分者は出ていません。しかし、以下の新聞記事にみられる街頭の騒動がありました。
《大阪朝日新聞大正7年8月18日》
「同(16日)午後十二時下關市路上に於て米價問題に關し演説を爲すものあり群衆約一千名集合せしも警察官の説諭により解散し派出所に引致取調中」(17日夜内務省発表)
《福岡日日新聞大正7年8月19日》「▲下關市の警戒 兵隊重砲の出動」
「下關市は十六日夕景より市役所陸上警察署取引所並に商業會議所附近に群衆の漸次増加するあり十時に至り其數二千の多きに達し刻々形成檢悪の兆を呈したれば商店は戸を閉ざし燈火を消爲に市内は暗黑となり前夜對岸門司市に於ける騒擾に鑑み市民は安き心地なかりしが警察署は水上署及郡部各署巡査並に重砲兵一個中隊の各應援を受け要所々々を警戒し居りし故暴挙に至らざりしが其間に西警察署長は署前の群衆に對し慰撫的演説をなしたるに幸ひに漸次解散事なきを得たり」
《關門日日新聞大正7年8月19日》「●全國米騒擾...▲下関市 幸に無事」。要約。
下関市では3新聞社の後援で篤志家が米の廉売をし、市も遅まきながら大廉売をしたため人心は緩和した。門司で米騒動が発生したため下関警察は要塞司令部の助力を得て徹底的な警戒をしたため幸いに暴動は起こらなかった。16日夜には取引所の前に一壮漢が演説し、一時形勢不穏であったが当局の取締りで勃発しなかった。同夜、伊崎と西細江の米商に酔漢が現れて廉売を迫ったものの警官の注意で引き取り何れも無事だった。
《防長新聞大正7年8月20日》「●縣内の騒動...△其他」
「都濃郡太華村にては十六日夜同じく不穏の形勢あり警察の手にて五名の首謀者を捕へ他は直ちに解散し熊毛郡田布施町にては十七日夜富海にては十五日夜何れも米騒動と認むべき事件ありしが極めて些少にて何事も為さゝりし如く下関にては十六日夜米価問題に関し大演説を試み形勢不穏なりしも其場にて解散せしめられ幸に事なきを得たり」。
《關門日日新聞大正7年8月24日》「●日傭稼の路傍演説 現内閣を罵倒して引致さる」。要約。
22日正午頃、広島出身の日雇い(44)が、米の高いのは現内閣のやり方が悪いと現内閣を罵倒して取り押さえられ本署に引致され取調中。
《防長新聞大正7年8月25日》「●下關尚物騒」。
「下關に於ては今尚米騒動に關する流言蜚語盛んにて白米商には脅迫状頻々として舞い込み原籍廣嶋市〇〇〇〇番地当時下關市〇〇〇丁目〇〇〇〇方〇〇〇〇(54)と云ふ酔漢は廿二日午後八時頃仝市西細江海岸にて米尚謄しと云つて滔滔たる路傍演説の眞最中を警官に現認され陸署に連行目下勾留中尚既報の彦島亜鉛工場に押寄せたる元門司署巡査某の一味徒黨並に宇部の暴動に座して逃走せる某及び下關の各米商を脅迫せる奴四十餘名は目下下關陸署に於て厳重取調中なるが依然物騒なり」
アジア歴史資料センターB08090136700『大正七年七月ニ於ケル米騒擾ニ関スル件』。茶色の輪郭は管理者が付けた。8月17日
明治40年に、下関要塞砲兵連隊が野戦重砲兵第5連隊、第6連隊に二分されると同時に野戦重砲兵第2旅団司令部が開設され、下関要塞司令部(上田中町)の旅団長が下関衛戍司令官となった。
下関市内の警戒。
以下の2史料は、アジア歴史資料センターC03011253500『米価騰貴ニ基ク各地騒擾ノ件』。
番号0340と番号0341の史料ですが、スマホ画面では番号0341が上になっています。
『下関重砲兵聯隊史』(下関重砲兵聯隊史刊行会。昭和60年)
・明治40年11月に、野戦重砲兵第五聯隊、野戦重砲兵第六聯隊が新設され、同時に野戦重砲兵第2旅団司令部が開設された。
・大正7年8月、野戦重砲兵第五、第六聯隊の一部で編成された臨時独立重砲兵大隊がシベリア出兵に従軍した。
・「八月三日、富山県漁村婦人の"米よこせ騒動"は各地に飛び火し、下関でも要塞司令部が衛戍司令部を編成して巡察歩哨の市内警戒、治安維持に努め不祥事件を未然に防いだ。この時に、本部を光明寺に置いた一個中隊は、亀山八幡、彦島西細江地区の警戒にもあたった。」
《推定出兵延人員・2000名以上の市町村》 定説の出典 松尾尊兊「米騒動鎮圧の出兵規模」『史林』(71)1988年、177~178頁表。
1下関市11,544
2大阪府(大阪市・岸和田町・今宮町など2市6町3村)9,884
3神戸市5,617
4戸畑町5,256
5和歌山市4,260
6門司市4,140
7八幡市4,110
8東京市3,856
9広島市3,008
10呉市2,583
11須恵村・宇美村・志免村(福岡県の海軍採炭所)2,536
12宇部村2,431
13福岡市2,160
14添田町2,032(福岡県峰地炭鉱)
全国 出兵地点122(騒動未発地点18) 出兵延人員101,718 前掲書181頁表。
《下関市付近の出動は本当に全国一なのか》
下関市では暴動を伴う大規模な米騒動は発生していないのに、群衆と軍隊・警察が広範囲に激しく衝突した大阪市や神戸市より出動者数が多くなっている。松尾は米騒動の軍隊出動者数研究の第一人者で、この説は有力であるものの、本当に下関市は全国最多なのだろうか。
1918年(大正7)7月26日、下関駅構内で弾薬を積んだ貨車が爆発し多数の死傷者がでた。8月14~16日に対岸の門司で大規模な米騒動が発生し、下関への伝播が懸念された。8月16日に下関市内で1000~2000名が集まる不穏な動きが生じた。8月17~18日に宇部で大規模な米騒動が発生した。シベリア出兵が始まり、8月8日から22日に、門司港からウラジオストックへ向けて兵士が出兵していたため厳重な警戒をしていた。
下関市は下関要塞(関門海峡を挟む下関市~門司市に多数の砲台)のある軍事拠点で、治安出動を命じる下関衛戍司令官の所在地であり、シベリア出兵を円滑に行うために米騒動の発生を予防しなければならなかったと考えられる。小倉の第12師団がシベリア出兵師団で留守部隊となっており、下関衛戍司令官への出動要請が多かった。
このような背景があり、米騒動の発生や米騒動の予防出兵(松尾は8月15日~27日としている。出兵は周辺の門司市・厚狭郡厚西村・豊浦郡彦島村を含む)のために兵士の出動が行われたと考えられる。それにしても多すぎないか。
松尾尊兊『民本主義の潮流』(国民の歴史21)1970、文英堂、131頁でも、「下関市の一一五四四を筆頭に」と下関の兵力動員が全国一としています。ここでは、「五千台が門司・神戸・宇部・戸畑」としています。
宇部の「五千台」は、後に、前記の表のように2,431名に修正しており、この動員数は実態に近い数字です。
松尾の下関全国一の数字は、下関市の最大出動人員888名に13日を乗じた数字です。松尾は、宇部村の場合は、他の史料とあわせて考察し、最大出動人員559名に10日を乗じることはせず、当初5000名台としていたのを調整して減じ、延べ2,431名としました。
松尾の下関市の出動人員数は過大に見積られている蓋然性が高いといえます。他の史料から推察すると出動人員の少ない日がほとんどであり、松尾の下関に於ける兵力動員数全国一説は誤りと考えます。宇部同様に調整した数字に減じるべきですが、今後の研究が必要です。
『馬關毎日新聞』大正7年8月17日
「下關商業會議所にては各地の狀況に鑑み此際公設市場を設けて差當り米價最高の限定をなし安賣を開始して賣買差額の不足金は別に方法を以て之を集めることにすべく此問題について目下市当局と協議中なれば近く實現すべしと云う」
米騒動の直接的原因は諸物価や米価の高騰であった。このため、食品を中心とする生活必需品を安く、安定して入手できるよう各地に公設市場が設置された(大阪では米騒動前の1918年4月に日用品供給場(公設市場)が設置されている)。こののち、食品の安定供給と流通を目的として、大正12年(1923)に「中央卸売市場法」が制定された。
2022.12.21