Ⅲ-3 「地図で見る宇部地域の発展と宇部炭鉱」近現代(生徒)

幕末(ペリー来航後)・明治・大正・昭和戦前期(昭和20年8月15日にアジア太平洋戦争が終わるまでの昭和期)を「近代」といいます。

戦後の日本を「現代」といいます。

「近現代」は「近代」と「現代」のことです。「前近代」は江戸時代以前のことです。

(これは、『日本史』の時代区分で、『世界史』の時代区分とは相違します。) 

 

①宇部村と宇部市の行政区画の変遷

 次の表は江戸時代後期から昭和期の宇部村・宇部市の行政区画です。現在の宇部市のうち楠木町を除いた行政区画の変遷です。

 表の太枠で囲った部分が米騒動時(大正7年(1918))の宇部村の範囲です。

 表は『防長風土注進案』をもとに管理者が作成した。

拡大可。
拡大可。

≪村名の読み≫瓜生野・うりゅうの。善和・よしわ。櫟原・いちいばら。如意寺・にょいじ。沖ノ旦・おきのだん。岐波・きわ。

 

②近代 明治30年(1897)の宇部村

 以下の国土地理院地図は、すべて原本の謄本を管理者が画像化したものです。

管理者が国土地理院から購入した地形図の「小野田(註:「野」は俗字)」明治30年測図と「床波」明治32年測図を管理者がつなぎ合わせて画像化。
管理者が国土地理院から購入した地形図の「小野田(註:「野」は俗字)」明治30年測図と「床波」明治32年測図を管理者がつなぎ合わせて画像化。

 江戸時代に開作された後の明治時代の宇部村をみてみましょう。

 

 上図は国土地理院の明治30年(1897)と明治32年の2枚の地図を合わせた宇部村周辺の地図です。大正11年(1922)の国土地理院地図の名称は、宇部村が地域の中心となったため「宇部」、「宇部東部」となっています。しかし、明治30年ころの名称は左の地図が「小野田」(須恵村の中心地)、右が「床波」(とこなみ・西岐波村の中心地)となっており、宇部村が小さな村と認識されていたため地図の名称として使用されなかったとみられます。

 

 宇部村は長門国厚狭郡の最東端に位置して周防国との境にあり、現在は宇部市となっている西岐波村・東岐波村は周防国吉敷郡でした。長門国と周防国の国境は宇部市立川上中学校の校長室・職員室を通っており、床には国境があったことを示すテープが貼られています。厚狭郡の中心は、藩政時代以来船木(ふなき)町でしたが、宇部村が石炭産業で発展して市制が施行(大正10年)され、その後、周辺の村を次々に合併・吸収して厚狭地域の中心地となりました。 

宇部村に隣接する厚東川東岸の藤山村(現宇部市)、厚東川西岸の厚南村(現宇部市)、須恵村小野田(現山陽小野田市)には開作(干潟に堤防をつくり水田・塩田を開発。他県では一般に「新田」という)がひろがっています。

 

 地図が作製された明治30年(1897)ころの宇部村の中心は、上宇部(かみうべ)寺の前(てらのまえ)で、寺の前に村役場(現山口県立宇部高等学校)や教念寺があり門前町が形成されていました。大正期の中心市街地となった沖ノ山は、明治30年ころはまだ白砂青松の砂丘であったことが地図から読み取れます。

 地図には炭坑の記号がいくつか見られ、日清戦争(1894~95)ころから石炭の生産・販売が増えて真締川河口付近の船着き場周辺に市街化の端緒がみられます。現在は市街化している沖ノ山砂丘の内側には水田が広がり、江戸時代以来の農村風景であったことがわかります。

 

 明治30年は、日清戦争後で、この年に宇部鉱業組合(組合長渡邊祐策)、宇部炭鉱の中核炭鉱に発展する沖ノ山炭鉱組合(頭取渡邊祐策)が設立されました。日清・日露戦争を契機に宇部炭鉱の採炭量が増え、宇部村の中心を南北に流れる真締(まじめ)川(間占川・新川)河口が停泊地・寄港地となり、周辺の沖ノ山の砂丘地帯が急速に市街化していき、真締川の両岸に本町が形成されました。

新川を挟んだ沖ノ山砂丘上の市街地が新川地区で、宇部村の中心は上宇部地区から人口の多い新川地区に移りました。村役場は上宇部寺の前(現宇部高校)にありましたが、市役所は市制施行(1921)の翌年に上宇部から東新川新庁舎へ移庁しました(『宇部市史年表』・『宇部市制十年史』)。

 

 

③近代 大正期・米騒動のころの宇部村市街地と宇部炭鉱

2021宇部市制施行100周年。

1921年に宇部村は宇部市となりました。2021年に市制施行100年の節目を迎えます。

次の地図は、宇部市制が施行された1921年の地図です。

『宇部市新地図』大正10年(1921)

宇部市制施行年(1921・大正10年)の古地図。1918・大正7年の時は新坑は築島だった。(宇部市立図書館所蔵の地図を管理者が縮小して画像化し、図上に記号等を記載した。)
宇部市制施行年(1921・大正10年)の古地図。1918・大正7年の時は新坑は築島だった。(宇部市立図書館所蔵の地図を管理者が縮小して画像化し、図上に記号等を記載した。)

 

 「宇部市新地図」は宇部村が1921年(大正10)に市制に移行した年に作成されました。

「宇部市新地図」は米騒動時(1918年・大正7)の地図ではありませんが、ほぼ同じ時期の地図で、当時の宇部村・宇部市のようすを知ることができます。

 米騒動当時の市街地は海岸に沿って、東西約4キロ、南北1キロの沖ノ山砂丘上に広がっていました。米騒動はこの市街地全域に拡大し、さらに郊外(島・琴芝・梶返)に点在する炭鉱経営者(頭取)、大棟梁(おおとうりょう・保安係長))の邸宅が襲撃されました。

 

《米騒動時に宇部炭鉱採炭高の約8割を占めていた3炭鉱4坑》

 「宇部炭鉱」は、宇部村内の炭鉱とし、米騒動(1918)の年には12鉱が操業していました。中心的な炭鉱は以下の3炭鉱(4坑)でした。

 〇東見初炭鉱組合(頭取藤本閑作貴族院議員)。所在地・・「宇部市新地図」の東南部。1918年の出炭量は宇部炭鉱で最多でした。

 〇沖ノ山炭鉱組合(頭取渡邊祐策衆議院議員)。所在地・・[本坑」(のち旧坑)・同図中央部、[新坑]・同図西南側にある海上の築島(「第一沖ノ山」と記載されている場合がある。のちに本坑となる。本坑となった後は、別の坑口が「新坑」となっているので注意が必要)。

「宇部市新地図」と以下の地図で新坑の位置を比較すると、「宇部市新地図」では新坑が実際の位置より東南方向に移動させて描かれているのがわかります。

 〇第二沖ノ山炭鉱組合(頭取渡邊祐策)。所在地・・同図西側(現在の宇部セメントのところ)。

 

 各炭鉱の坑口は「宇部市新地図」の各炭鉱・炭坑(本坑・新坑)の名を記した位置にあり、この坑口から入ると、坑道が宇部湾の沖合海底に網の目のように伸びていました。南北方向にいくつかの断層が走り、断層を乗り越えて東西方向に坑道を伸ばすことはできませんでした。このためいくつかの坑口・炭鉱が必要となりました。

 宇部の米騒動は、この3炭鉱4坑(東見初炭鉱。沖ノ山炭鉱(本坑・新坑)。第二沖ノ山炭鉱)の鉱夫が主体(9割以上)となりました。

 

《宇部村を構成していた3つの社会と米騒動》

①上宇部地区(現在の宇部高校のところに村役場がありました)を中心とする伝統的な農村社会。第1次産業が中心。

②新川地区(常盤通は「不夜城」とよばれる繁華街でした)を中心に形成された新興の都市社会。第3次産業が中心。

③沿岸地区(海底炭鉱で働く鉱夫の納屋がありました)を中心とする炭鉱社会。第2次産業(鉱業)が中心。

 米騒動の主体となったのは炭鉱の納屋(舎宅・社宅)で生活する鉱夫でした。山口県内だけでなく広島県や島根県の山間部の冬季積雪地帯からの出稼ぎも多かったのです。宇部村内では①と②の対立がありましたが、③の納屋の鉱夫たちの社会は①と②の社会とのつながりがほとんどありませんでした。

 特に、村政の中心となった村会議から③は完全に疎外されていました。

米騒動が激しくなった背景の一つに、こうした村内の社会の分断と対立があったと考えます。

 

国土地理院地図。「宇部」・「宇部東」大正11年(1922)

大正十一年測量 国土地理院地図(管理者が国土地理院より購入) 「宇部」と「宇部東部」の2枚を管理者が合わせ(地図上の段差の部分)画像化。白砂青松の砂丘は市街地と炭鉱になりました。
大正十一年測量 国土地理院地図(管理者が国土地理院より購入) 「宇部」と「宇部東部」の2枚を管理者が合わせ(地図上の段差の部分)画像化。白砂青松の砂丘は市街地と炭鉱になりました。

④近代(大正期)と現代の比較≪1≫ 『宇部市新地図』(1921年)と2018年地理院地図のジオリファレンス

2018年QGIS地理院地図の上に前掲の『宇部市新地図』(1921年)を管理者がジオリファレンス(地図の重ね合わせ)をしました(透過率40%)。

 『宇部新地図』は、宇部沖の築島である沖ノ山炭鉱新坑と干潟(浅い海)にあった第二沖ノ山炭鉱が東南方向に大きくずれているのを除き、宇部市街地はほぼ正確に描かれています。

 米騒動当時は沖ノ山の市街地の北側に水田が広がっています。 現在(2018年)の地理情報と『宇部市新地図』の二つの地図を比較してみると、海面の埋め立てや空襲後の都市計画、市街地の拡大等によって大きく変化していることがわかります。 

 

⑤近代(大正期)と現代の比較≪2≫ 『国土地理院地図』「宇部」・「宇部東」(1922年)と2018年地理院地図のジオリファレンス

平成30年(2018)のQGIS地理院地図に上図大正11年(1922)の地理院地図の一部を管理者がジオリファレンス(同じ位置で重ねて表示)した地図。現在の地図から海岸の埋め立て、市街地の拡大、山口宇部空港開港、道路建設等が進んだことがわかります。
平成30年(2018)のQGIS地理院地図に上図大正11年(1922)の地理院地図の一部を管理者がジオリファレンス(同じ位置で重ねて表示)した地図。現在の地図から海岸の埋め立て、市街地の拡大、山口宇部空港開港、道路建設等が進んだことがわかります。

⑥宇部港の地図(『国土地理院地図』)1922年と2018年の比較

1922年の国土地理院地図と2018年のGIS地理院地図をジオリファレンスにより比較してみました。

1922年A図

大正11年(1922)宇部港。国土地理院地図を管理者が切り取った画像です。
大正11年(1922)宇部港。国土地理院地図を管理者が切り取った画像です。

2018年B図

平成30年(2018)宇部港。国土地理院QGIS画像を管理者が切り取った画像です。
平成30年(2018)宇部港。国土地理院QGIS画像を管理者が切り取った画像です。

A図(1922年)とB図(2018年)の『国土地理院地図』のジオリファレンス

A図(1922年)とB図(2018年)を管理者がジオリファレンスし、「本坑」、「新坑」を記入した。
A図(1922年)とB図(2018年)を管理者がジオリファレンスし、「本坑」、「新坑」を記入した。

 A図の「第一沖山炭坑」とは、8月17日午後7時頃に、米騒動が最初に発生した沖ノ山炭鉱新坑のことです(のち本坑となります)。新坑のあった場所の現在地は、ジオリファレンスした地図で確認できます。

 新坑は、岸壁の改修工事により、現在は、陸上になっている部分と海上になっている部分があることがジオリファレンスでわかります。すなわち、現在、宇部興産本社工場の東側に大型の石炭運搬船が着岸してオーストラリアなどから輸入した石炭を降ろしている岸壁があり、この岸壁の南側と現在は海になっている部分にありました。

 新坑は、採炭のために宇部湾内に百間角(182m四方)で築かれた築島で、本坑(のち旧坑)から連絡船で結ばれていました。

 

 宇部港は現在、徳山下松港とともに国際バルク戦略港湾に選定され、大型船着岸を可能にするしゅんせつ工事がおこなわれています。

 

 A図(1922年測量)では新坑(第一沖山炭坑)は堤防で陸地とつながっていますが、米騒動の発生した1918年(大正7)には海上の築島(下図『「沖の山埋め立て地』「■大正5年」参照)で、本坑との間に連絡船が行き来していました。

 築島は物価が高く(島は一般的に物価が高いのですが、米騒動時にどのくらい高かったかは不明です)、新坑の鉱夫は5割の賃上げを要求しました(本坑は3割賃上げ要求。1割5分回答)。しかし、沖ノ山炭鉱組合と宇部鉱業組合(宇部村内の炭鉱組合で組織される)が本坑と同様に1割5分の賃上げしか認めなかったため、新坑鉱夫は本坑鉱夫とともに新坑・本坑の炭鉱施設(事務所・仕入店)を破壊した後、17日夜9時頃に、市街地に押し出して渡邊祐策頭取別邸などを襲撃して宇部の米騒動が勃発しました。その後、他の炭鉱の鉱夫や村民が加わって騒動は市街地全域に拡大しました。

 

《参考》宇部沖の埋め立て地の変遷

『宇部港修築の歴史』「埋立地の変遷」(国土交通省中国地方整備局 宇部港湾・空港整備事務所)を管理者が撮影した画像。
『宇部港修築の歴史』「埋立地の変遷」(国土交通省中国地方整備局 宇部港湾・空港整備事務所)を管理者が撮影した画像。

 明治から平成にかけての宇部沖の埋め立ての変遷が12枚の地図で表されています。

 米騒動時(大正7年・1918)は、「■大正5年」の地図に近い景観で、沖ノ山炭鉱新坑(地図には「本坑」と記されていますが、これは新坑がのちに本坑になったからです)は海上の築島でした(築島は「百間角」(182m四方)の広さでした)。大正5年(1916)の地図の築島の東北側に「沖ノ山炭鉱旧坑」と記されていますが、米騒動時はここが本坑で、のちに旧坑となりました。

 埋め立ての変遷図の「■大正10年」の地図は、上記の「宇部市新地図」(大正10年・1921年)と一致しています。

 


《参考》「やまぐちGIS【大学研究成果】のひろば」より

ボタンをクリックすると「やまぐちGISひろば」のHPにある宇部市の文化財のストーリーマップが閲覧できます。

 


宇部発展の功労者渡邊祐策と地の底で支えた炭鉱労働者

渡辺翁記念会館(宇部市朝日町)。村野藤吾設計1937年(S12年)。重要文化財。管理者撮影以下3画像。
渡辺翁記念会館(宇部市朝日町)。村野藤吾設計1937年(S12年)。重要文化財。管理者撮影以下3画像。
渡邊祐策翁像(渡辺翁記念会館公園)。朝倉文夫作。
渡邊祐策翁像(渡辺翁記念会館公園)。朝倉文夫作。
渡辺翁記念会館玄関壁の炭鉱夫をモチーフにしたレリーフ。中央部を残せなかったか。
渡辺翁記念会館玄関壁の炭鉱夫をモチーフにしたレリーフ。中央部を残せなかったか。

 渡辺翁記念会館は村野藤吾(むらの-とうご)設計の日本近代の代表的建築で、重要文化財に指定されています。前面のテラスの中央に台座が置かれ、左右に各3本の記念柱が立っています。台座は沖ノ山炭鉱株式会社、6本の柱は宇部窒素工業株式会社・宇部セメント製造株式会社・株式会社宇部鉄工所・宇部電気鉄道株式会社・新沖ノ山炭鉱株式会社・宇部紡績株式会社を象徴しているといわれます。渡邊祐策(わたなべ-すけさく)翁の威徳を顕彰するため翁が関連したこの7社の寄付により建築されました。1942年(S17年)に沖ノ山炭鉱、宇部窒素、宇部セメント、宇部鉄工所の4社が合併して宇部興産株式会社が設立されました。

 翁は、石炭という有限の資源で得た富を無限の発展の可能性のある工業に投資し、「共存同栄」を座右の銘として宇部発展の功労者となりました。

 記念会館の玄関壁に、採炭に使用したつるはしを持つ力強い炭鉱夫の群像をモチーフにしたレリーフがあります。宇部の発展を海底炭鉱で支えた炭鉱夫の功績を記念しています。

 公園内に翁の立像があります。近代を代表する「墓守」や「大隈重信像」の彫刻の制作で著名な朝倉文夫の作品です。

2020.12.3

 


sdGsと宇部地域の今後の発展のために

「山口県宇部市に計画の石炭火力断念 宇部興産とJパワー」

「電源開発(Jパワー、東京)は16日、宇部興産(山口県宇部市)と検討してきた宇部市での石炭火力発電所の建設計画を断念すると発表した。電力需要の伸び悩みや再生可能エネルギーの導入の状況などを踏まえて判断した。

両社は2015年、共同出資の山口宇部パワー(同)を設立。当初は大阪ガス(大阪市)も出資していたが、事業性が見込めないとして194月に撤退を発表。26年に出力60万キロワットの2基で運転を始める予定だった。世界的な脱炭素の流れの中、環境への配慮や事業性を考慮して石炭火力から撤退する動きが全国で相次いでいる。」(『中国新聞』デジタル4/16()

 

地球温暖化は地球環境に危機をもたらしている。二酸化炭素削減は国際社会の目標となっており、石炭火力発電所の断念は賢明な判断と考える。

今後は国際社会の一員として、再生可能エネルギーに投資し、SDGs(Sustainable Development Goals持続可能な開発目標)の目標達成に貢献することが地域と企業の発展に繋がると考える。

 

2021.4.17


菅直人元首相と本庶佑教授は山口県宇部市出身

 第94代内閣総理大臣菅直人(かんなおと)と2018年ノーベル医学生理学賞受賞の本庶佑(ほんじょたすく)京都大学特別教授は、ともに山口県宇部市出身であり、宇部(並びに宇部市立神原小学校・宇部市立神原中学校・山口県立宇部高等学校)は、首相とノーベル賞受賞者を生んだ稀有な街(学校)である。

 菅元首相は両親が岡山県出身で本籍地は岡山県であるが、父の勤務地(宇部曹達・現セントラル硝子)である宇部市で生まれ、宇部市立神原小学校を経て宇部市立琴芝小学校、宇部市立神原中学校卒業後、山口県立宇部高等学校に入学した。高校2年の夏に父の転勤で東京都立小山台高等学校2年に編入して卒業し、東京工業大学に進んだ。

 本庶特別教授は京都市生まれで両親は富山県出身であり、本庶氏は富山大空襲を体験した。戦後父の勤務地(山口県立医科大学医学部(山口大学医学部の前身)教授)である宇部市で育ち、神原小学校、神原中学校、宇部高等学校を卒業し、京都大学医学部医学科に進んだ。

 二人は、山口県宇部市の出身とするのが自然で、あえて菅元首相を岡山県または東京都、本庶特別教授を京都府または富山県の出身とする理由もないだろう。

 菅元首相は、前記の経歴から「内閣総理大臣の一覧」(クリック・ウィキペディア)では山口県出身となっている(この一覧では、安倍晋三元首相は東京都出身と記載されている)(このページはだれかに不都合であったためか出身地が削除されている2024.10.11)。ところが、山口県政は、官邸HPを根拠に、菅元首相を山口県出身ではないと決めて除外し、山口出身の歴代首相は、安倍首相までの8人(伊藤博文・山県有朋・桂太郎・寺内正毅・田中義一・岸信介・佐藤栄作)としている。

 

 山口県と宇部市は、ノーベル賞を受賞した本庶特別教授を山口県と宇部市の出身として大歓迎している。山口県は、2019年2月12日、本庶特別教授に県民栄誉賞を授与すると発表した。村岡県知事は「県にとって大変な名誉。子どもたちに夢と希望をもたらしてくれた」(『朝日新聞』2019.2.13やまぐち面)と喜びを語っている。

 一方で、山口県総合政策部は、「首相官邸のホームページには、『(歴代総理大臣の)出身地は原則として、戦前は〈出生地〉を、戦後は〈選挙区〉を記載』とある。それに従ったということです」(『NEWSポストセブン』2013.2.28)として、安倍元首相の2回目の首相就任に際し、菅元首相を山口出身の首相から「排除」して、菅元首相の映像・パネルを展示しなかった。(首相官邸ホームページ「内閣総理大臣一覧」の備考・クリック)

 安倍元首相は、両親が山口県出身で、父が毎日新聞記者、衆議院議員であり、東京生まれ、東京育ちである。私立成蹊小学校、成蹊中学校、成蹊高等学校を経て成蹊大学に進んだ。

 東京生まれ、東京育ちの安倍元首相は、選挙区が山口県なので山口出身となり、山口生まれ、山口育ちの菅元首相は選挙区が東京なので東京出身とするのは、定義の方が間違っていないだろうか。たとえば、元東京都知事の舛添氏や現都知事の小池氏が福岡や神戸の出身ではなく、東京都知事だから東京出身というのでは本人も周囲も納得できないだろう。選挙区がどこにあるにしても、小学生時代を中心に過ごし、生まれ育ったところが出身地ではなかろうか。

 管理者(元教員)の感覚では、幼稚園、小・中学校、高校、特別支援学校の児童・生徒時代、一般的な感覚では、幼少年期の時間と空間を山口県で過ごした人は山口県出身である。

 

 安倍元首相が山口県出身とするなら菅元首相も山口県出身とするべきだ。官邸の説得力のないホームページを根拠にして、山口県当局が菅元首相を東京出身と定義するのは無理があるし、非常識で冷たい政治的断判と考える。本庶特別教授や安倍元首相と比較しても、菅元首相は山口県出身とするべきであろう。山口県当局は、地方自治の本旨にもとづき、山口県当局の判断で、菅元首相を山口県宇部市出身とするべきである。

 山口県に生まれ、幼・小・中・高生時代を山口県で過ごした児童・生徒を不合理に排除するのではなく、夢と希望が持て、温かくて住んでみたくなる山口県にするべきではなかろうか。

 2020.9.16更新

 

 次のボタンをクリックすると菅直人元首相が山口県宇部市出身の首相から除外されていることに関連する記事を読めます。菅義偉首相は秋田県出身か神奈川県出身かで話題になっています。


菅義偉首相は「秋田県出身」と記載(官邸HP)

 官邸ホームページは菅前首相の出身地を「秋田県」としている。官邸は、首相出身地は、戦前は出生地、戦後は選挙区としてきた。この説明に無理があることは、いわゆる「落下傘候補」が存在することからも明らかである。

 今回、首相官邸HPは菅義偉前首相の出身地を「秋田県」とした(クリック・外部リンク)。菅義偉首相の選挙区は神奈川県である。安倍首相の出身地はこれまで通り山口県のままで訂正されていない。従って、官邸は、首相出身地は、出生地・成育地と選挙区の両用の方針に転換したことが判明した。

 菅直人元首相を山口県宇部市出身としない根拠は、戦後は選挙区を出身地とするという官邸の基準であった。この基準はなくなり、菅直人は正式に山口県出身の9人目の首相となった。

 山口県政が、菅直人元首相を山口県出身としない根拠としてきた官邸の基準は消滅した。これまで、山口県総合政策部は、「首相官邸のホームページには、『(歴代総理大臣の)出身地は原則として、戦前は〈出生地〉を、戦後は〈選挙区〉を記載』とある。それに従ったということです」(『NEWSポストセブン』2013.2.28)として、安倍元首相の2回目の首相就任に際し、菅元首相を山口出身の首相から「排除」して、菅元首相の映像・パネルを展示しなかった。

 今後の展示においては、菅直人を山口県出身の9人目の首相として展示しなければならない。

2021.11.6更新 


岸田文雄首相も「東京都出身」と記載(官邸HP)

  首相官邸ホームページは、首相の出身地の基準を、戦前は出生地、戦後は選挙区としていた。この基準では岸田首相は広島県出身となる。しかし、この基準は矛盾が大きいため、出身地は首相の生まれ育ったところという常識的な場所を加え、岸田首相の出身地を「東京都」にしたと推察される。

〇首相官邸ホームページが「東京都」出身としている岸田文雄首相のプロフィール(ウィキペディア「岸田文雄」)

 東京都渋谷区生まれ。小学校1~3年生はニューヨーク市の公立小学校。3年次途中より千代田区立永田町小学校。千代田区立麹町中学校。開成高校。早稲田大学法学部卒業。

 出生地・成育地は東京都・アメリカ。選挙区は広島県1区。

〇同ホームページが「山口県」出身としている安倍晋三首相のプロフィール(ウィキペディア「安倍晋三」)

 東京都生まれ。成蹊小学校。成蹊中学校。成蹊高校。成蹊大学法学部政治学科卒業。

 出生地・成育地は東京都。選挙区は山口県4区。岸田首相と同じで出身地は東京都ともいえる。

〇同ホームページが「東京都」出身としている菅直人首相のプロフィール(ウィキペディア「菅直人」)

 山口県宇部市生まれ。宇部市立神原小学校を経て宇部市立琴芝小学校。宇部市立神原中学校。山口県立宇部高校の2年生の夏に東京都立小山台高校編入。東京工大卒業。

 出生地・成育地のほとんどは山口県。選挙区は東京都18区。

 2021.11.30

 


「住みたい田舎」ベストランキング。『田舎暮らしの本』(宝島社)

2024年版 第12回「住みたい田舎」ベストランキング 『田舎暮らしの本』2024年2月号。宇部市は「総合部門」で全国6位、山口県で2位にランキングされています。

「人口10万人以上20万人未満のまち」(回答自治体54)の4部門(総合部門。若者世代・単身者部門。子育て世代部門。シニア世代部門)のランキングです。

【総合部門】全国6位。山口県2位。(山口市が全国3位です)

【若者世代・単身者部門】全国5位。山口県1位。

【子育て世代部門】全国9位。山口県1位。

【シニア世代部門】全国9位。山口県1位。

 宇部市は全世代においてバランスよく評価されています。ただし、全国的には、1位今治市・2位西条市との差があります。全国、山口県ともに、他の都市の追い上げを受けてランキングが下がっており、山口県の総合部門では、初めて1位の座を山口市に譲り2位になりました。宇部市が全国的にみて住みよいまちであることに変わりはありませんが、さらなる住みよいまちづくりへの努力が求められています。

2024.4.5

 


2023年版 第11回「住みたい田舎」ベストランキング 『田舎暮らしの本』2023年2月号。宇部市は「総合部門」で全国3位、山口県で1位にランキングされています。

「人口10万人以上20万人未満のまち」(回答自治体50)の4部門(総合部門。若者世代・単身者世代。子育て世代。シニア世代)のランキングです。

【総合部門】全国3位。山口県1位。

【若者世代・単身者部門】全国4位。山口県1位。

【子育て世代部門】全国6位。山口県1位。

【シニア世代部門】全国6位。山口県1位。

 宇部市は全世代においてバランスよく評価されています。ただし、全国的には、1位・2位との差があり、全国、山口県ともに、次の都市の追い上げを受けていて、さらなる住みよいまちづくりへの努力が求められています。

2023.3.13

 


2022年版 第10回「住みたい田舎ランキング」 『田舎暮らしの本』2022年2月号。 宇部市は山口県内第1位

 今年は、751市町村の「まち」を5グループに分けています。そしてグループごとに、「若者世代・単身者」「子育て世代」「シニア世代」という世代別にランキングを出しています。しかし、今年は、これまで宇部市が上位となっていた全国総合ランキングは掲載されていません。

 宇部市は、5グループの中の「人口5万人以上20万人未満のまち」のグループに入ります。このグループでの全国ランキングは、「若者世代・単身者が住みたいまち」で16位、「子育て世代」で15位、「シニア世代」で19位に入り、バランスよく全国上位にランキングされています。山口県内では、3部門とも第1位にランクされています。

 5グループすべてを1グループに統合し、全国を地域別に12エリア別に分類したなかの「中国エリア」ランキングでは、「若者世代・単身者」が8位、「子育て世代」が6位、「シニア世代」が7位にランクインしています。

 コロナ禍もあり地方移住への関心が高まっています。市民にとって住みよい「まち」づくりは、だれもが移住したくなる「まち」づくりに繫がると考えます。

2022.1.28 

 


宇部市が2021年「住みたい田舎ランキング」の「大きな市」・「総合部門」で全国2位

 出版社の宝島社は月刊誌『田舎暮らしの本』2月号で、「2021年版 第9回 住みたい田舎ベストランキング」を発表した(2021.1.7)。

 コロナ禍で地方移住の熱が高まっているそうです。

 宇部市は、「大きな市」の「総合部門」ランキングで第2位でした。

 なお、「大きな市」の「総合部門」第1位は愛媛県西条市で、「若者世代部門」「子育て世代部門」「シニア世代部門」を合わせて全4部門で1位を獲得しています。

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2021.1.29

 


宇部市が2020年「住みたい田舎ランキング」の「大きなまちランキング」で全国1位

 2020年版 第8回「住みたい田舎ベストランキング」2020年1月4日発表

 「住みたい田舎ベストランキング」は、“日本で唯一”の田舎暮らしを紹介する月刊誌『田舎暮しの本』が2013年2月号より毎年実施しているランキングです。

 「今回は、移住定住の推進に積極的な市町村を対象に、移住支援策、医療、子育て、自然環境、就労支援、移住者数などを含む230項目のアンケートを実施。629の自治体からいただいた回答をもとに、田舎暮らしの魅力を数値化し、ランキング形式で紹介しています。

 「自然が豊かなところで田舎暮らしを楽しみたい人」と「都会の便利な暮らしも捨てがたい人」の双方のニーズに応えるため、人口10万人未満の「小さなまち」と、人口10万人以上の「大きなまち」の2つのカテゴリーに分けてランキングを作成しています。
 また世代によって移住者のニーズや施策が様々なことから、全世代対象の【総合部門】のほか、 【若者世代部門】【子育て世代部門】【シニア世代部門】の全4部門を設置しています。」(宝島社)

 宇部市は「大きなまち」総合部門で堂々の第1位になりました。またシニア世代部門でも第2位となっています。

 移住支援策と移住率の高さ、都会と田舎がほどよく調和しているところ、山口大学医学部附属病院などの医療部門の充実、山口宇部空港の利便性などが高く評価されました。

 歴史を学ぶのは未来を創造するためです。宇部市をさらによりよい街にするとともに、山口県全体を住みやすい地域社会に発展させましょう。

2020.1.12