2019年1月実施のセンター試験日本史Bの問題は従来通りの出題形式と内容である。「大学入学共通テスト試行問題」が志向している出題形式が、先行的に出題されるのではないかとみられていたが、従来通りの出題形式であったことから、2020年度も出題形式の変更はないと推察する。その中で、歴史を地域から見る問題や史料読解による歴史的思考力を問う問題は今後も続くと考える。
今年度は、時代別では近現代史(ペリー来航以後の幕末を含む。42.5点(%も同じ))、分野別では政治(51.75点)、外交(25.5点)の出題が多くなっている。反面、時代別では近世(安土・桃山、江戸時代。18.5点)、分野別では経済・社会(14.5点)、文化(8.25点)の出題が少なくなっている。
特に、文化の出題が過去の出題と比較すると大きく減っており、文化に関する問題は知識の暗記による解答になるという見方から、出題が敬遠されていると考える。
昨年は、米騒動100年にあたっていたので、日本史Aに富山の米騒動が出題された。今年度は新元号に改元されるため、元号に関する出題がされている。また、日米関係重視の現在の政治・外交を反映してか、日米関係史がテーマとして取り上げられている。
日本史Bの出題では、2019年5月の改元など、その年に実施される関心の高い出来事や「〇〇100年」など歴史の画期に関する出題がよくされる。とするなら、2020年度は東京オリンピックの年であり、スポーツにかかわる出題がされる可能性がある。ただし、教科書の範囲内での出題なので、特別の学習は要しない。
大衆文化としてのスポーツのはじまりは、中等・高等教育の普及する、大河ドラマ「いだてん」や甲子園大会がはじまる時代であり、大正時代が注目される。
近現代史の出題が多いため、対策として、近現代史の授業・学習を遅くとも3学年の11月までに終了しなければならない。教育課程で1~2学年で実施する場合と比較すると、3学年実施の場合、3学期の学習ができないため、1~2単位の増加単位が必要となろう。
現役生の近現代史の学習は、授業時間の制約で準備が遅れ問題演習も十分でない学校が多い。2019年度のセンター試験日本史Bの近現代史重視の内容は現役生にとって厳しかったと推察する。
全問題数 36問 時代・分野・配点
第1問 6問16点 通史(古代・中世・地名1問2点。古代・中世・近世・近代・貨幣制度1問2点。古代・史料・遣唐使1問3点。近代・北方領土1問3点。中世・近世・アイヌ蝦夷地1問3点。近代・社会運動1問3点。)
第2問 6問16点 原始・古代(弥生・外交1問2点。古墳・政治・民衆支配1問3点。奈良・政争1問3点。奈良・平安・国司制度1問3点。飛鳥・国造・評制度・史料1問3点。平安・土地制度1問2点)
第3問 6問16点 中世(鎌倉・南北朝・政治・元号1問2点。院政・政治・1問3点。鎌倉・政治・外交1問3点。室町・政治・貿易1問3点。室町・鎌倉公方1問2点。室町・戦国・地方社会1問3点)
第4問 6問16点 近世(江戸・土木工事1問2点。江戸・農村支配1問3点。江戸・採草地争論・史料1問3点。化政文化・1問2点。寛政の改革・1問3点。江戸・禁教・鎖国1問3点)
第5問 4問12点 近代・幕末・明治維新(幕末・維新・政治1問3点。幕末・開国問題・1問3点。明治初期・東京・1問3点。華族制度1問3点)
第6問 8問24点 近現代・日米関係史(大正・昭和・アジア進出1問3点。近現代・海外日本人動向1問3点。幣原喜重郎・憲法1問・3点。戦後・占領政策1問3点。幕末・明治のアメリカ人1問3点。プレスコード・史料1問3点。戦後・国際政治1問3点。1990年代・日米軍事・防衛関係1問3点)
時代別出題数・配点
原始・古代 6問(16点)+0.5問(1点)+0.25問(0.5点)+1問(3点)= 7.75問・20.5点。
中世 6問(16点)+0.5問(1点)+0.25問(0.5点)+0.33問(1点)= 7.08問・18.5点。
近世 6問(16点)+0.25問(0.5点)+0.66問(2点)=6.91問・18.5点。
近現代 4問(12点)+8問(24点)+0.25問(0.5点)+2問(6点)=14.25問・42.5点。
分野別出題数・配点
原始・古代 政治4問12点。外交2問5点。経済・社会1.25問2.5点。文化0.5問1点。
中世 政治5問12.5点。外交0.83問2.5点。経済・社会0.75問2点。文化0.5問1.5点。
近世 政治3.66問10点。外交1問3点。経済・社会1.25問3.5点。文化1問2点。
近現代 政治5.75問17.25点。外交5問15点。経済・社会2.25問6.5点。文化1.25問3.75点。
全体 政治 18.41問 51.75点。
外交 8.83問 25.5点。
経済・社会 5.5問 14.5点。
文化 3.25問 8.25点。
全36問中、史料問題4問のみ管理者が解説する。
第1問全時代 問3 [3] 出典 円仁『入唐求法巡礼行記』(にっとうぐほうじゅんれいこうき)
史料問題は注が付いているので、注釈は容易である。円仁(慈覚大師)は、最澄に師事した比叡山の僧で、9世紀前半に入唐し、天台教学・密教を学び、天台宗の密教化を進めた。山門派の祖。出題の史料の読解には以上の知識は必要ない。
注釈
遣唐使が帰国のために現地で調達した9隻の新羅船は、官人を分乗させ、船頭として監督させた。官人が監督したのは、日本人の水夫(水手(かこ))の外、新羅人で海路を暗記する者60余人を雇って、船ごとに7人から5人を乗せた。また、新羅人通訳の金正南に、円仁が(教学のため)唐に残留するための方法を検討させた。どうするのが良いか決まらない。
管理者の解説
注釈から、Xは正しく、Yは、円仁が唐に残留する計画を新羅人通訳金正南に検討させているのに、「秘密にしている」とあるので誤りである。② X 正 Y 誤 が正解。
史料の読解だけで解答できる平易な問題である。
第2問 原始・古代 問5 [11]3点 典拠 『那須国造碑』
天武・持統天皇の時代(飛鳥浄御原令)までは、国「評」里制であり、大宝律令(文武天皇)以後は、国「郡」里制であることを理解していれば、解答は難しくない。「評」と「郡」の時系列があいまいな場合は、史料の読解だけで正答を導くのはやや難しい。大化2年の「改新の詔」に「郡司」とあるが、『日本書紀』編者による後世の潤色であることは木簡等から明らかであり、大宝律令以前の地方行政区画は「郡」ではなく「評」であった。
注釈
永昌元年(689年。唐の武則天の治世。持統称制時代(持統天皇3年にあたる)で、天武天皇の薨去後、日本の元号が停止していたため唐の元号を使ったとみられる)4月、飛鳥浄御原朝廷の那須国造(なすのくにのみやつこ)であり、追大壱(天武天皇の冠位四十八階の33番目)の冠位である那須直(なすのあたえ)韋提は、評の長官(評督(ひょうとく・こおりのかみ))を賜った。庚子の年(700年)正月2日(壬子の日)辰節に死去した。そこで、韋提の後継者の意斯麻呂らは、碑名を立てて(栃木県大田原市(旧那須郡))、故人を偲んで以下のように述べる(後略)。
管理者の解説
天武天皇の死後、元号が停止されていたため、唐の武則天時代の元号を使用していることから、Xは正しい。韋提は「評」の長官の「評督」を賜っており、大宝律令では、「評」ではなく「郡」であり、郡司の四等官の長官は「大領」であるので、Yは誤りである。② X 正 Y 誤 が正解である。
第4問 近世 問3 [21] 典拠 『千葉県の歴史』資料編近世2
江戸時代後期に安房国(千葉県)の2つの村の間で採草地をめぐる争論がおこり、和解した文書である。江戸時代は、肥料・飼料や茅葺屋根等の材料として、村人が共同して利用する採草地(入会地)が必要であったので、その帰属は村人にとって死活問題であった。ここでは、川名村と金尾谷村の境の秣場(採草地)をめぐる争論を隣村の村役人が仲裁した。史料を読解すれば解答できるが、江戸時代の村における共同利用地(入会地)の理解ができていない受験生には難しく感じられるかもしれない。江戸時代の村は自治的であり、幕府の裁判ではなく、村同士で仲裁し和解して問題を解決していたことを示す史料である。
注釈
川名村と金尾谷村の村の境にある金堀山頂上の採草地(秣場・まぐさば)で両村が紛争になり、領主(天領)である幕府に訴え出ていた。隣村の舟形村名主、那古村寺領名主、深名村組頭、白坂村組頭の四村の村役人が仲裁に入り、両村に意見をして、承知納得の上、(中略)四ヶ村が仲裁に入り、紛争の処置を一任してもらい、両村が末永く両村の採草地(入会地・共同利用地)にするようによく話し合って示談することとなった。
管理者の解説
Xは正しく、Yも正しいので、① X 正 Y 正 が正解となる。
第6問 近現代 日米関係史 問6 [34] 典拠 「占領軍進駐ニ伴フ報道取扱要領等」いわゆるプレス・コード
占領下の報道が制限されていたことを示す史料である。史料の読解だけで解答できる平易な問題である。
注釈略
管理者の解説
Xは、史料の二に「公安ヲ害スベキ事項ハ何事モ掲載スベカラズ」とあるので、「真実であれば公安を害することでも報道することを許している」は誤りである。
Yは、史料四に、進駐連合軍に「不信若ハ怨恨ヲ招来スルガ如キ事項ヲ掲載スベカラズ」とあるので正しい。Xは誤りで、Yは正しいので ③ X 誤 Y 正 が正解となる。
1979年から共通一次試験が始まり、1990年にセンター試験に改称されましたが、センター試験は2019年度(2020年1月実施)で最後の実施となります。
来年度・2020年度(2021年1月実施)からは、大学入学共通テスト(予定されていた国数英の記述式は導入されなかった)になります。